七 円応寺

910 ~ 911
 黒羽町大字河原にあり、寺号を妙香山円応寺と称した尼寺であった。寺伝によれば、開山は源頼朝の女(大姫という)、妙円比丘尼(びくに)という。
 比丘尼は幼少の時、木曽義仲の次子義基の許嫁となった。ところが後に義仲は頼朝に滅ぼされ、義基も討たれて死んだ。それで許嫁の女は悲しんで尼となり、奥州に下る途次、この地に来たが、地形が鎌倉によく似ているため、此処に足をとどめ庵室を結んで住んだ。そうして夫義基、父頼朝の碑を建て、その冥福を祈った。これが当寺の始まりだという。
 また頼朝の女、乙妹が正治元年(一一九九)六月三十日、十四歳で死亡したので、母政子の悲しみは非常なものであった。それで乳母の夫掃部頭親能(ちかよし)が遂に出家したという。
 大姫、乙姫の出来事から、あるいはそれらの側近の女人が、尼となって来たのかもしれないと推察される。(『わがふるさと』)
 これらのことは、どこまで信じてよいかわからないが、とにかく由緒ある古い寺である。
 福原城主那須大膳大夫氏資の女が尼となり、円応寺に入り法雲妙性尼と称した。那須氏は寺領二百石を寄進し、法燈輝いたのである。(『那須拾遺』)
 天正十八年(一五九〇)那須資晴没落後は、寺領も減少され七十三石余となった。大関氏の女も尼となり、劉室妙鉄尼と称し、当寺に住んだことがある。後に僧寺となった。『創垂可継』の村々除き地として、「一、米五石弐升五合九勺 円応寺除き一、永七百六文 右同断」の記載がある。
 明治四年(一八七一)五月二十一日、住持義〓(ぎたい)和尚が、先住の某僧侶のため殺害されてより無住となり、翌五年廃寺となった。(『わがふるさと』)