黒羽町北野上満蔵山にある。雲巌寺の仏国国師の開山と伝えられている。寺号は満蔵山雲光教寺と称したが、寺の創建は明らかでない。伝えによれば、仏国国師が、雲巌寺に於て仏光禅師に就いて修行の終った後、清幽な地を探して行脚した。たまたまこの地に辿り着き心に適ったので、山を伐り開いて観音堂を建て観音像(仏師雲慶の作という)を安置した。その後崇敬者が多くなり、殿堂整備し、雲光教寺となった。戦乱の世となって仕守りする者なく荒廃した。後に寺をこの峯続きの奥隅である現位置に移した。(同堂の鐘銘による。但し鐘は戦時中に供出した)
天正十五年(一五八七)黒羽城主大関晴増は、寺の衰微を嘆いて寺領を寄進したので、ようやく復興した。その後元禄四年(一六九一)六月、別当宥仙和尚の代に、黒羽藩主大関信濃守増恒が鐘の鋳造資金を補助し、川島長右衛門尉重次を幹事とし、信者四十三名の援助により、新たに此の地において鋳造した。(武蔵国江戸の鋳物師田中丹波守藤原重行を招いた。撰文は帰一寺第十二世老隠比丘宥瓊である。)現在は廃絶して観音堂一宇あるのみ。
なお黒羽藩の除き地には、「一、米弐石九斗参升弐合 満蔵山除き」とある。