33 籾取高覚帳

925 ~ 926
二帖一二冊あり、第一帖は文化七年起~昭和二一年起の一一冊。第二帖は昭和二七年起の一冊。
 この覚帳は関谷家第六代関谷文左衛門義広を創始者として累代の当主が記帳したものである。この文書は文化七年(一八一〇)より現在まで長期間にわたる関谷家経営の田地の年々の籾の収穫高の覚帳で、俗に「稲刈覚帳」といわれている。そのうち明治三十年分が記載漏れとなり、また嘉永二年(一八四九)などの一部が記載してなく、一部の脱落がみられる。創始者は文化七年より天保十二年(一八四一)まで記帳されたが、その間天保の凶作による飢饉もあり、自ら経営の跡を残したことは意味があり、また子孫が家憲としてこれを継続して年々克明に記帳したものである。この覚帳は大福帳式の単純な記載であるが年毎に「梅木下」「日渡」とか固有の名称を有する各田地毎にその収穫量とその総計の〆高を籾高によって記録したもので、この外天候など稀に付記してある。なお昭和十七年以後は共同作業、動力脱穀などの関係で各田地毎を区別せず一轄記帳してある。