三、黒羽神社から見た周辺と大宿街道

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 黒羽神社は大字黒羽田町の高台にある。明治十一年(一八七八)十月、黒羽藩知事大関増勤(ますのり)を首として黒羽藩士有志の創建によるもので戊辰戦争の戦死者を合祀した。後に日清・日露戦争から太平洋戦争に至る戦死者を付祀した。黒羽招魂社(旧社名)として親しまれている。十月十三日を例祭と定めた。往時の例祭には近郷近在からの参詣者も多く、境内に見世物小屋が掛かり、露天店も立ち並び、騎馬打毬や相撲・剣道・柔道等の奉納行事もあって大いに賑わった。
 拝殿には太政大臣三条実美の「黒羽招魂社」、陸軍卿山県有朋の「振天声」の扁額が掲げられ、内殿前面には陸軍大将二品親王熾仁の「気壮山河」の額面がある。境内には大関増裕(ますひろ)の胸像(幕末の開明的な黒羽藩主。若年寄・海軍奉行。)、戊辰戦争の戦死者益子信明・高橋亘理、三田地山(幕末、明治前期の政治家・学者・教育者。)、興野市左衛門隆雄(山林業の振興に貢献。『太山の左知(とやまのさち)』の著者。文久二年没。)、鈴木為蝶軒(天明、文化年間の農政家。『農喩』の著者。)、石川寒巌(大正後期から昭和初期に活躍した日本画家。)、岸良雄(歌人。昭和三十八年没。)等の碑がある。地元では「灯台」と呼び親しんでいる常夜灯(円形の石造。高さ十二メートル余。有志の寄付金一千円で、明治十一年八月竣工。)が境内にそびえ人目を引いている。ここを訪れ、碑文等に親しむことによって、黒羽の先人たちの業績の一側面に触れることができる。
 桜の木々に囲まれた境内から東を見れば、御亭山(こてやさん)(大字北滝。五一二・九メートル。「綾織池」の伝説がある。山頂から日光・那須の山々、那須野が原が一望でき、ハイキングコースにもなっている。)に連なるスギ・ヒノキの山並みが続き、西への眺めは那珂川に沿った向町の家並みの背後に那須野の田園がひらけ、那須・高原・日光の山々が四季それぞれに雄大な美しさを見せてくれる。
 神社の東は八溝自然歩道コースになっている桜並木の大宿街道につながる。大宿は今も近隣の人々がお屋敷と呼んでいる侍屋敷跡である。道の東側には、黒羽藩校「作新館」を前身とする黒羽小学校がある。その昔の面影を残す侍門や「作新館文庫」の所蔵庫があり、学校には当時を物語る貴重な資料が蔵されている。西側には、落ち着いた侍屋敷のたたずまいを今でも残している。

桜並木のある大宿街道(黒羽小付近)

 北に黒羽城址の方向に進むと、左手に杉木立の続く坂の参道が見え、大雄寺がある。大雄寺は、応永十一年(一四〇四)余瀬村に創建され、粟山大雄禅寺と称したが、戦乱により焼失。文安五年(一四四八)大関忠増により再建され、大関家の檀那寺となった。大関高増が天正四年(一五七六)白旗城より黒羽城に移った際、現在地に移築し、黒羽山久遠院大雄寺(曹洞宗)と改めた。黒羽城南の要衡とし、寺の周囲に高い土塁を回し、有事の際には城砦に充てられるように築造されている。総門・本堂・庫裡・御霊屋・坐禅堂・鐘楼・廻廊・経蔵等が備わり、室町時代の形式を残す伽藍配置で、これら建造物とともに寺所有の絵画・彫刻・書跡類が県指定の文化財となっている。寺の左手の小高い丘に大関家累代の墓所がある。このすぐそばには、芭蕉と交情を深めた館代(城代家老)浄法寺高勝(通称図書、俳号秋鴉。)の墓もある。老杉の木立に囲まれた大雄寺は、簡素なうちに厳粛重厚な風格を感じさせ、四季を通じて県の内外から訪れる人が多い。
 この大雄寺の右手隣りに、『おくのほそ道』に「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に……」とある浄法寺家がある。浄法寺高勝の書院跡に「山も庭も動き入る(る)や夏座敷 芭蕉」(加藤楸邨書)などの句碑が建っている。往時はここからの眺望がすばらしかったのであろう。浄法寺邸から更に坂道をのぼると程なく黒羽城址に至る。