この高館は文治年間(一一八五~八九)那須資隆が神田城(小川町)より移ったところという。馬坂、東坂、稗田窪、湯泉平(窪)の名が残っている。
那須氏が源平両勢力間に骨肉わかれて所属しなければ、家系の存続がみられなかつた宿命であろうか、『那須記』と口稗は梶原景時による落城伝説を残している。(注)白米城の伝説あり。
高館は川田居館地の出城とする説がある。
(注)川田榎平にある居館は那須氏の一族川田資成が構築し、天険を利用した高館を要害として持ち、対岸の稲沢(鎌倉のころ那須資家が築き、稲沢氏が住す)とともに、東山道を扼す要衝地であったという。)
高館の少し北側の独立丘上に東堂山がある。こゝは馬の信仰地である。
高館の景勝はすばらしく、崖端に四阿(あずまや)がある。春は満山桜花に包まれ、秋は錦繍(きんしゅう)に綴られ、那珂の清流に懸る三滝の先に那須野ヶ原が開け、遠い歳月を隔てて、狩に遊ぶ強者(つわもの)どもの雄叫びが聞える。
(注)那須野は源頼朝により遊猟が営まれた地で、あられたばしる那須の篠原の地である。いわゆる狩倉の地である。