2 岩谷要害跡

942 ~ 944
① 大字堀之内字館跡 ② 要害 ③ 山林、道路 ④ 良 ⑤ 角田氏?  ⑥ 鎌倉時代  ⑦ ―

 岩谷要害跡は那珂川とその支流松葉川との間に、南に向ってのびている山上海抜約二〇〇メートルのところにある。
 連郭で本館とみられる北の館は東西約五〇メートル、南北約六八メートルの長方形の郭で、上幅一一メートルのV字形の空堀で区切られ、館はおおむね平坦で北の一部と西側に約三メートル幅の土塁がある。虎口は西に一か所ある。本館に接続して南の館あり、東西約五六メートル、南北四〇メートルの郭がある。同じく空堀でめぐらされ堀底道がある。郭面はなだらかな南傾地で北西部に土塁のあとがみられる。なお本館の東側山腹にたて堀が確認できる。さらに南の館より約九六メートル南の丘陵端にも南の砦とみられるところがあり、鹿野道を隔てて八幡館跡があり、本館の北は谷(長谷田道)を隔てて兵庫山があり、東側にある松葉川を堀とみたてる説もある。
 岩谷要害の名称は本館の東側山腹に岩石の露頭部あり、岩谷観音がまつられてあるからであろうか不詳である。
 創垂可継に
・御堂地観音堂傍に古き石塔あり、土民の口碑に久寿年間の狐狩せし時総大将三浦介の石碑と云う。(梅雪尼建つという)

・岩屋山に要害あり狐狩りの居館という。

・駒ひやし場という地名あり三浦介の狩の時馬の蹄をひやし洗いたるところという。

・狐狩りのとき、堀之内村のもの勢子に出しに、皆狩色に染めし衣類を着せしによって、この村の者一統、今も柿色の衣類を着ると祟りあると云い禁じ、又篠原稲荷への参詣をしなかったという。

・三島明神は三浦上総の武徳を万代に称えるため両人の霊をまつったものという。

・妙見社、稲荷社は三浦介狐狩りの時願望あり造営したという。

 この地は東山道の脇道が通じていたところで那珂川に近く松葉川沿いにあり浜街道も通じていた。鹿野道、長谷田道も通じ軍事道口、烽火路としても要衝地であったとみられる。
 ここは三浦介の築城と伝えられるが三浦介の裔角田氏の要害とみられ、源頼朝の那須野狩のころと伝えられる。岩谷下の集落堀之内は鎌倉のころから開けたとみられる。

岩谷要害跡見取図