① 大字片田字館 ② 館山 ③ 山林 ④ 良
⑤ 金丸氏 ⑥ 応永年間 ⑦ 館山の北側に金丸氏の墓碑あり
金丸氏要害は亀山城跡と一連の城砦とみられる。那珂川左岸の南北に連なる八溝山系の御亭山塊が丘陵性をなす西部にある。
複郭居館形の規模の大きい典型的な山城である。(黒羽山城に劣らない規模)本丸は標高二〇〇メートルの位置にある。崖下の那珂川河岸段丘上の水田との比高は約六〇メートルである。本丸は平坦で削平されている。北部と西部の一部に土塁が現存している。本丸の西と南側は空堀で、その外側は土塁で南側に櫓台の築山がある。(北部の土塁にも一か所あり)西側に虎口一か所あり、崖下は堀底道である。北丸面は平坦な自然の土地で外周は曲輪帯でその北端は物見に最適の地形である。
西丸も広大な規模で数段の平地にわかれ、その外周は空堀、土塁、腰曲輪など複雑である。またその規模は大きい。特に幾つか折れながら続く空堀は山城の堅固さを示している。その他本丸の西側に堀り割り、下段にも土塁などがある。山城への入り口は北、西、南などにある。郭の外周りは一般に急崖で裾の部は所謂亀山石の岩盤でそそり立っている部分がある。特に北部は甚しい。なお西麓には城下の亀山町がむかしの面影を残し沖積地には条理の遺構がみられたが、最近の基盤整備で消滅している。築城者は金丸氏で応永年間根小屋(大田原市南金丸)より移城しここを居城とする。亀山城とともに那須氏の傘下にある砦である。永正の頃福原城に拠った上那須氏(福原)の内紛があり那須資親の実子山田次郎義久がこの亀山城にあったとき、資親の養子那須資永の家臣関の十郎義時の急襲を受けて炎上したことがある。混乱の坩堝の中で資久は奪われ城下の亀山町の民家も焼かれたという。その後下那須(烏山)の砦となり、天正十八年金丸義胤が大関氏の家臣となったとき麓に館を築き廃す。なお古くは山田氏の支配下にあったとみられる。
金丸氏要害跡実測図(部分)