20 弾正要害跡

959 ~ 959
① 大字前田弾正  ② 弾正居館跡  ③ 山林、水田、畑、宅地  ④ 消滅  ⑤ 伊王野弾正と伝う  ⑥ 戦国時代末期とみられる  ⑦ 伊王野氏の出城

 弾正居館は殆んどその遺構をとどめていない。かなり以前に開墾とか宅地造成のため消滅してしまったのかも知れない。館は野上川が形成した河岸段丘上に構築されたものとみられる。赤台(あかんだい)と呼ばれる舌地状の崖上である。規模など明確でない。その位置について、最も定説となっているのは弾正橋近くの南側の台地、現在の町営住宅団地附近である。しかしここに館があったことを知っている古老は一人も居ない。口碑としては全く伝っていない。集落として弾正もその発生は新しい。そう考えると構え場の一つのセットである一時的な出城とみられる。構え場と共に野上川を扼す重要な位置にある。なお地元古老の談によるとその南方に館があったという。近傍に中城山などあり野上に通ずる御亭道という古道を扼す愛宕山下の台地上である。館があったとすれば赤台居館跡と呼ぶにふさわしい所に立地している。黒羽から北野上に通ずる古道を扼す重要地にある。隣接の構え場とともにその役割は大きい。特に黒羽の大関氏との対抗のためには最前線の拠点である戦国時代末期伊王野弾正の築城と伝えられ、北野上の地が伊王野氏から大関氏に移った段階で廃止された。