① 大字前田字八幡館 ② - ③ 山林、社寺境内
④ 良 ⑤角田庄右衛門 ⑥ - ⑦ -
八幡館は天正四年大関高増が黒羽に大規模な複郭の山城を構築したとき所謂黒羽城の一部となる。すなわち城頭(北部にある)に八幡の神がまつられていたので八幡館と称した。そして文政年間には鎮国社がおかれた。しかしそれまでは岩谷要害などと関連のある独立の城館であった。館は東の松葉川と西の那珂川間の丘陵上(標高二二一メートル)のところに位置している。西は開析谷であり東は断崖である。八幡館は深い堀りを境とし本館と北館とにわかれ、本城は堀底道を境として上城に続いている。本館は東西(鳥居の位置約四四メートル、南端六二メートル)南北約一八〇メートルの規模である。ほぼ平坦地でほぼ中央で二段造成になっている。城頭に長さ一四・八メートルの土塁があり、西端に径六メートルの塚があり、南に一〇メートルの土手が折れている。南側の東にも長さ二三メートルの土塁があり、その東端近くに現在道祖神がある。北側は幅約一〇メートルの堀り割りで、南の館斜面七・五メートル、北側斜面は約五メートルで北館に連らなっている。なお北側の堀り割りは東側の曲輪に接続し、その外側は堀り割道である。なおその外側は崖である。本館と曲輪帯との斜面は七・八メートル、約五〇度で曲輪の幅は七~一〇メートルほどである。大手は東側ほぼ中央である。西側は崖の中腹に三つに折れた長い空堀があり、堀底道が通じている。外側の土塁の一つに櫓台がみられる。なおその外側は堀り割り・曲輪・虎口などがみられ、那珂川の断崖に続いている。北館には西側と南西部に土塁がみられ、北側にもコの字型にみられる。館の規模は東西約二四メートル、南北四〇メートルほどで平坦である。なお北側は狭く、徳川末期には砲台がおかれたところであると伝えられている。築城者は三浦介の子孫角田氏(後の奥沢氏)で角田庄右衛門は那須氏の重臣である。那須資隆高館築城のころ築くともいうが定説は無い。この城は大関氏が白旗より移る天正の初めまで住すという。
ここからは大那須野を一望に展観できる軍事上の要衝地であり、那須の宰領下で重臣としての角田氏の拠点で大関に従ってからは城地を献じ奥沢氏を称し蜂巣の御山台にある奥沢館に移っている。
大関高増黒羽城構築のとき一部ここも修復されたのではないかとみられる。特に八幡館の南上城(石上台)南の空濠などは上杉景勝乱のとき修復をみたといわれている。