現在、翠桃邸のあった土地を「土手の内」と呼んでいる。(余瀬「鹿子畑邸」略図ならびに「白旗古城図」〈部分〉参照)現況は土手はなく水田化し、西北隅に墓所のみ残している。入口近く西面して卵塔の翠桃墓がある。正面に、不説軒一忠恕唯庵主」と法名が刻まれ、左側に辞世の一首と伝う「きゆるとは我は思はじ露の玉色こそかはれ花ともみゆ覧」、右面に「享保十三(一七二八)年戊申天初冬廿八日」とある。同墓所に、津田源光室の墓碑もある。
(注)鹿子畑氏は天正十八年(一五九〇)の「大閤検地帳」に名前(鹿子畑能登)が載せてあった方であると。また寛文年中惣給人知行高所付」に「四百四拾八石 鹿子畑左内」とあり、所付は「余瀬 三百四拾三石三斗壱升余北金丸 六拾弐石七斗五升余 長倉 四拾壱石九斗弐升余」である。鹿子畑氏はこの知行所の余瀬にあった屋敷に元禄期(二年)に芭蕉等が滞在したのである。
鹿子畑邸跡『白旗古城』(部分)