一 八溝の岩岳丸

991 ~ 993
 むかしむかしのお話です。それは那須家の祖といわれた須藤権守貞信が、この地方を支配する少し前のお話で、大頭龍神社の由来にもまつわるお話であります。
 禁廷(宮中)で、桃の節句日のこと、一群の黒雲が舞って帝(みかど)の姫君『若狭の前』が、さらわれてしまいました。まだ、悲しい涙が乾く間もない十五夜の宴がたけなわになった頃、再び黒雲の中で、『雲世の前』が怪鬼につかみとられ、東の空に飛び去り、その行方はわからなくなってしまいました。禁廷は悲嘆の涙に包まれ、公卿や大臣達は、御前に集って、連日連夜の評定を重ねましたが、よい手だてもなく、思案にくれるばかりでありました。この時、下野国宇都宮の座司(ざす)であった宗円から「八溝山に岩岳丸という悪鬼がすんでいて、下野の国ばかりでなく、近国、さらに境を越えた遠国まで荒しまわり、人民や六畜をつかみ去って食べ、その被害の数は計り知れない程沢山あり、一刻も早く岩岳丸を追討して、国を救い、人々の憂えを除いていたゞければ、誠に有難いことです」と早馬をもって奏聞されました。禁廷では、早速群臣達が協議しました。「さきに御前の両宮(みや)をつかみ去った者も、或はこの八溝の岩岳丸のしわざに違いない」と、岩岳九の追討をきめ、須藤権守貞信に勅宣が伝えられました。統領の讃岐国の住人、貞信卿は、軍勢を催し、嫡子相模守資通卿を検見とし、高梨七郎盛光と、郎従荏原三郎らが、大治二年(一一二七)(『那須記』では天治二年(一一二五))十二月、八溝の麓川上の地にとどまって、大槲郷大蔵影光を召し出し、八溝山高笹岳の次第をこまかく言上させました。山根の影光はかしこまって、次のように申し上げた。「私の屋敷続きに高い山があります。大蔵ボッチ(峯)と言います。その奥の山王岳(八溝山の別名)の北の越(こし)にあたって高笹山という山があって、そこから光るものが、八十数度も八方に飛んだのを見たことがありますから、恐らく怪しい鬼はそこにすんでいるものと思われます。この近境では、人畜が被害を受け、その数は、かぞえきれない程沢山あります。あの山中には、岩岳丸という悪鬼が徘徊(はいかい)していることは確かであります。しかしまだ正体はわかっていません」と言上しました。
 貞信は、地元の影光から報告を聞いて、「もっともなことである。岩岳丸はそこに居るに違いない。」と確信して、案内を申しつけました。
 影光は、先頭になって八溝山を登り野陣を張り、草木を分け、怪鬼を探しまわりました。このときです。一人の翁が忽然(こつぜん)と現われ、貞信に向って、次のように申されました。
「悪鬼のすみかは、この山を越した高笹(たかささ)山である。この鏑矢(かぶらや)で、悪鬼を追討すべし」と神矢を賜わりました。さらに翁は、「われは三輪の神である。(『那須記』では大己貴命)あなたをお護りしましょう」と言って姿を失せました。
 貞信は不思議に思いながら、翁が消え失せた方に向って再拝し、「有難うございます。きっと悪鬼を退治し、人々の難を救ってみせます。どうぞお加護をお願いします」と厚く礼をのべるのでありました。
 幾歳月を経た、樵(きこり)も入らない灌木と笹の群落とを分けて、さらに登って行きますと、果して高笹に鬼のすむ岩屋があり、毒霧が陰々とたれこみ、枯木が山積し、流血が地を這うなかに、岩岳丸は臥居していました。それは/\身の毛もよだつほどでありました。
 影光は持っていた斧でその左腕を切り落しますと、岩岳丸は驚き、影光に眼をむき、とびかゝってきました。
 その時須藤権守貞信は、神から授った鏑矢で、岩岳丸の首をめがけて射かけました。またその後から、貞信の嫡子資通もとびかゝってこれを打ち、さらに藤次郎忠義ら勇力無双の者が、これにおそいかゝり、刀で、三度突き剌しました。岩上源内義綱・太田四郎らもこれに負けじと馳せ参じ、これをずたずたになるまで切りつけたのであります。資通が岩岳丸の首を打ちますと、首は大きく飛び上って、異様な音と光を発し、西の方へ遠く飛び去りました。
 飛んで行った先をみると、大蔵影光屋敷の古木(槲(かしわ)・楢(なら)・多羅(たら)ともいわれている)に、かみつくようにとどまっていました。影光は岩岳丸征伐のとき道案内をした者であります。
 貞信は、その首を櫃(ひつ)に入れ、京に参上し、帝の御覧に供しました。帝は、貞信に御褒賞として、那須郡を賜りました。しかし、その後も岩岳丸の霊魂は、大蛇の姿となり、夜な夜な光を放って人々を害し続けたのです。