二 荒神の化生『蟹』

993 ~ 994
 那須余一がまだ生まれなかったむかしのこと、荒ぶる神であった笹岳丸(岩岳丸のこと)は、大きな蟹に姿を変え、八溝の笹岳(高笹山ともいう)にたて篭(こも)り、遠境近隣を荒していました。朝廷から討伐を命ぜられた須藤権守貞信は、天治二年(一一二五)十二月二日に相模国を立って、下野の八溝山の麓、大多羅村に陣をとり、勢子(せこ)を須佐木・須賀川、蛇穴・磯上等から、五百人程集めました。地元の大槲大蔵と蛇穴(じゃけち)次郎を案内に立て、笹岳に登り、この荒神を懲(こ)らし鎮めました。貞信は、八溝の谷と峯を分けて、蟹の化生(けしょう)を探しましたが、なかなかそのすみかはわかりませんでした。ある日のこと老翁が現われ、山王権現のお告げにより鏑矢を授かり、その居処も知らされました。貞信は屈強の者三十余人を召し出し、深山のなかに入りました。黒雲が谷を埋め一寸先も見ることが出きません。貞信は、虚空(こくう)にむかって「南無山王大権現、鬼神の形を見させ給え」と祈りを捧げました。霊験はあらたかでありました。忽ち暗雲がはれたかと思うと、岩穴から悪鬼がその姿を現わしてきました。異様な怪物でありましたから気を失った者が続出しました。
 悪鬼の形は、口は耳の根までさけ、舌をなめまわしたさまは、炎に似て、火焔そのものであります。十本の手足で、辺りの磐石(いわ)を木の葉のように投げ飛ばし向かってきました。
 貞信はひるまず、鏑矢をうちかけ、これを見事に退治することができました。悪鬼が弱ったので近寄って見ると、さらに驚いてしまいました。
 笹岳丸は数千年を経た化生で、身丈(みのたけ)二米余もある大きな怪物でありました。頭は牛に似て、髪の色や眉毛は白馬のようであり、また竜蛇のようでもありました。二本の角は約六十糎程、両眼は三十糎程もとび出していて、その先は真赤なほおずきか、金まりに朱をさしたようで、爛(らん)々と輝いていました。十の足はどれも一米五十糎もあって、指には鉄の錨(いかり)のような爪が生えていました。前の足二つは蟹の足に似て、刀を打ち違えたようになっていて、鋭く磨(と)ぎすまされ、全身には、熊のような毛が生えていて、あたかも針金を植えこんだように見えました。世にも稀な怪物でグロテスクそのものです。
 資通卿がこの怪鬼の首を切りますと、大槲大蔵の背戸(せど)の古樹にとゞまったそうです。早速この首を唐びつに容れ、帝(みかど)の御覧に供したということです。貞信は那須の領主になりました。早速、山王権現と大己貴神の御加護に感謝申し上げ、八溝山の麓に社を建て、この荒神の霊を鎮め、頭沢大明神として、一層崇敬しました。
 これ等一連の八溝の岩岳丸伝説は、『常陸風土記』の説話に付会して語られてきたものとみられる。次に関連のある『風土記』の一部を紹介しておく。
(参考)古老(ふるきおきな)のいへらく、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲馭(しろ)しめしし天皇(すめらみこと)のみ世、人あり。箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)、郡(こおり)より西の谷の葦原を截(きりはら)ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀(やつ)の神、相群れ引率て、悉尽(ことごと)に到来(き)たり、左右(かにかく)に防障へて、耕佃らしむることなし。

 俗(くにひと)いはく、蛇(へみ)を謂(い)ひて夜刀(やつ)の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引(ひきい)て難を免るる時、見る人あらば、家門(いへかど)を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側(かたはら)の郊原(のはら)に甚多(いとさは)に住めり。
 是(ここ)に、麻多智(またち)、大きに怒の情(こころ)を起こし、甲鎧(よろひ)を着被(つ)けて、自身仗(みづからほこ)を執り、打殺し駈逐(おひや)らひき、乃(すなは)ち、山口に至り、標(しるし)の〓(つゑ)を境の堀に置(た)て、夜刀(やつ)の神に告げて、いひしく、「此(ここ)より上(かみ)は神の地(ところ)と為すことを聴(ゆる)さむ。此より下(しも)は人の田と作(な)すべし。今より後(のち)、吾(われ)、神の祝(はふり)と為(な)りて、永代(とこしへ)に敬(ゐやま」)ひ祭らむ。冀(ねが)はくは、な祟(たた)りそ、な恨(うら)みそ」といひて、社(やしろ)を設(ま)けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還(また)、耕田(つくりだ)一十町餘(とところあまり)を発(おこ)して、麻多智の子孫(うみのこ)、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。(以下略)〈『常陸風土記』(岩波書店刊)による〉


この件(くだ)りは、新治(にいはり)を開いた古き信仰の姿を歌いあげた一文である。