この『八岐大蛇』の話は、『那須国造(なすのくにのみやつこ)』が、銀色の双翼をもつ不老不死の神馬『天津速駒(あまつはやこま)』を水辺に求め、『天安鞍(あめのやすくら)』・『天日矛(あめのひほこ)』・『天広楯(あめのひろたて)』の所謂三種の神器により、退治したという話である。これはもと/\山岳伝説であるが、これに付会し八溝の岩岳丸退治の伝説に主人公として那須の国造を登場させたものである。なおこの根底には『不老不死』を願う『常世(とこよ)思想』と『水神伝説』があることは注目してよい。
むかしむかしのお話です。それは下毛の国とは別に那珂川上流に那須の国がおかれていた頃のことであります。
那須国造(なすのくにつくり)(なすのくにのみやつこ)は、八溝山にすむ八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治することを命ぜられました。
八溝は谷が深く、山がけわしく、一寸先が闇ぞ(八溝)といわれる程でありました上に、大蛇の力が強かったので、国造はわが身に力をつけるため、神馬『天津速駒』(あまつはやこま)と『三種の神器』(八呎鏡・草薙劔・八坂にの曲玉とに見合う『天安鞍』(あめのやすくら)・『天日矛』(あめのひほこ)・『天広楯』(あめのひろたて)の三器を探し求めるため信濃の国までやってきました。
先ず国造は、『天津速駒』を手に入れることにしました。この駒は、世に稀な駿馬であります。武甕槌神(たけみかつちのかみ)が神去りましたとき、その御霊(みたま)として、生まれたと言う馬で、肩に銀色の双翼があり、つねに天空を駈け巡り、夜は駒ヶ岳の絶頂に寝るという『不老不死』の神馬でありました。
一度、この馬に乗ると、全身に清気がみなぎる不思議な馬であります。しかしいつも天空を馳けめぐっている速駒の消息は容易にわかりませんでした。国造はあちこち尋ね歩きました。
八溝の八岐大蛇を一日も早く退治して、人々の難儀を救いたい至誠が天に通じたのか、その駒は駒ヶ岳の麓『姫ヶ泉』の水を飲みにくることを知りました。
この泉は活力が得られる霊水が湧く泉として、天下に知られていました。
那須国造は、念願の『天津速駒』に邂逅(かいこう)することができました。蒼(あお)い泉の畔に、真白な馬が銀の双翼を休めていたのを目隙した時は、嬉しさが胸にこみあげ、自ら活力が溢る思いでありました。太陽の光りが、燦燦(さんさん)と降り注いでいました。
那須国造は、早速この速駒の手綱をとり、乗鞍岳からお借りした『天安鞍』を着け、駒に跨がり、槍ヶ岳から『天日矛』を。立山から『天広楯』も借り受け、霊峰富士を真下に、天空を駈け、下野・常陸・南奥に蟠踞(ばんきょ)する八溝山に向いました。天津速駒に跨がり、天駈ける那須国造の雄姿は、凛凛(りり)しいものがありました。
八岐の大蛇は、八溝の険しい山中に、毒霧を吐きながら、猛威を奮っていましたが、平和を願い、その上霊妙な力を身につけた那須国造には到底及びません。難なく退治されました。
その後、那須国造の勢威と信頼は増すばかりであります。八溝地方にも平穏な日々が続きました。しかし、あの『天津速駒』の姿をみたものはありませんでした。駒ヶ岳に戻ったとも、それらしい駒を見たという者もいましたが、定かではありません。しかし、誰もが信じていることは「今も天空を駈けめぐって、那須の国をお護りしている」ということでありました。
那須国造(なすのくにつくり)(なすのくにのみやつこ)は、八溝山にすむ八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治することを命ぜられました。
八溝は谷が深く、山がけわしく、一寸先が闇ぞ(八溝)といわれる程でありました上に、大蛇の力が強かったので、国造はわが身に力をつけるため、神馬『天津速駒』(あまつはやこま)と『三種の神器』(八呎鏡・草薙劔・八坂にの曲玉とに見合う『天安鞍』(あめのやすくら)・『天日矛』(あめのひほこ)・『天広楯』(あめのひろたて)の三器を探し求めるため信濃の国までやってきました。
先ず国造は、『天津速駒』を手に入れることにしました。この駒は、世に稀な駿馬であります。武甕槌神(たけみかつちのかみ)が神去りましたとき、その御霊(みたま)として、生まれたと言う馬で、肩に銀色の双翼があり、つねに天空を駈け巡り、夜は駒ヶ岳の絶頂に寝るという『不老不死』の神馬でありました。
一度、この馬に乗ると、全身に清気がみなぎる不思議な馬であります。しかしいつも天空を馳けめぐっている速駒の消息は容易にわかりませんでした。国造はあちこち尋ね歩きました。
八溝の八岐大蛇を一日も早く退治して、人々の難儀を救いたい至誠が天に通じたのか、その駒は駒ヶ岳の麓『姫ヶ泉』の水を飲みにくることを知りました。
この泉は活力が得られる霊水が湧く泉として、天下に知られていました。
那須国造は、念願の『天津速駒』に邂逅(かいこう)することができました。蒼(あお)い泉の畔に、真白な馬が銀の双翼を休めていたのを目隙した時は、嬉しさが胸にこみあげ、自ら活力が溢る思いでありました。太陽の光りが、燦燦(さんさん)と降り注いでいました。
那須国造は、早速この速駒の手綱をとり、乗鞍岳からお借りした『天安鞍』を着け、駒に跨がり、槍ヶ岳から『天日矛』を。立山から『天広楯』も借り受け、霊峰富士を真下に、天空を駈け、下野・常陸・南奥に蟠踞(ばんきょ)する八溝山に向いました。天津速駒に跨がり、天駈ける那須国造の雄姿は、凛凛(りり)しいものがありました。
八岐の大蛇は、八溝の険しい山中に、毒霧を吐きながら、猛威を奮っていましたが、平和を願い、その上霊妙な力を身につけた那須国造には到底及びません。難なく退治されました。
その後、那須国造の勢威と信頼は増すばかりであります。八溝地方にも平穏な日々が続きました。しかし、あの『天津速駒』の姿をみたものはありませんでした。駒ヶ岳に戻ったとも、それらしい駒を見たという者もいましたが、定かではありません。しかし、誰もが信じていることは「今も天空を駈けめぐって、那須の国をお護りしている」ということでありました。
古代の人々は、草原が朝露でびっしょり濡れているのを不思議に思っていたことでしょう。夕べは星空であったし、雨も降らなかったのに、どうしてどうして露っぽいのだろう。きっと月神か、星の神の仕業ではないかと信じたのに違いありません。
人々は月神が、露の恵み手であり、若水をもたらすと信じていました。正月に若水を汲むという習俗もそこから生まれたものでしょう。
『月』は人間と違って、一度死んでも(月が欠けること)また生まれかわる(満月にもどる)ことができる。月は永遠の生命のシンボルであり、若返りの水をもたらすものも月であると信じていた。これは常世思想の『不老不死』の基調となっている考え方の一つである。
本稿の天空の馬『天津速駒』の活力は、『姫ヶ泉』の若水(月神がもたらした)を喫すことから生じたものと考えられる。