田沢要害(りゅうげの跡)
むかしむかしのお話です。北野上の田沢と呼ぶ集落の裏山に、『りゅうげ』(竜蓋山・竜崖山と誌す)と呼ぶ、急崖な山がありましたが、山頂近くの岩窟に『りゅうげ丸』という竜神がすんでいました。
『りゅうげ丸』は、そのむかし須藤権守貞信に討たれた八溝の岩岳丸の残党であったそうですが、歳月の隔りがみられるためか、里人にはもうすっかり忘れられています。水を司る竜神さまは、麓の人々に水をもたらし、稲田を潤していました。田沢の里は、青田が風にそよぎ、秋には黄金の波が立ち、豊作がもたらされた。平和な時が流れていきました。
ある年のことです。豊作が予想され、村人がみのりの秋を喜び合っていました。二百十日であったか、あるいはもっと過ぎていたのか記憶にありませんが、暴風が襲来し、集中豪雨のため、丹精こめた稲田は、土砂もろともすっかり押し流されてしまいました。なだれのように鉄砲水は田畑ばかりでなく居宅まで粉砕し、流し去ってしまったのです。
里人は、悲嘆に暮れ、復興する気力さえ失ってしまって、なす術(すべ)もありませんでした。
これは竜神さまのお怒りだ、りゅうげ丸が暴れ出したのだと、恐れおののいてしまいました。こんな悲惨なことのあと里人は、再び竜神さまが荒れることがないように相談して、そのすみかに、蓋をしてしまったそうです。また麓に、竜神を祀る社殿をつくりお祭りをするようになったそうです。
『りゅうげ丸』は、そのむかし須藤権守貞信に討たれた八溝の岩岳丸の残党であったそうですが、歳月の隔りがみられるためか、里人にはもうすっかり忘れられています。水を司る竜神さまは、麓の人々に水をもたらし、稲田を潤していました。田沢の里は、青田が風にそよぎ、秋には黄金の波が立ち、豊作がもたらされた。平和な時が流れていきました。
ある年のことです。豊作が予想され、村人がみのりの秋を喜び合っていました。二百十日であったか、あるいはもっと過ぎていたのか記憶にありませんが、暴風が襲来し、集中豪雨のため、丹精こめた稲田は、土砂もろともすっかり押し流されてしまいました。なだれのように鉄砲水は田畑ばかりでなく居宅まで粉砕し、流し去ってしまったのです。
里人は、悲嘆に暮れ、復興する気力さえ失ってしまって、なす術(すべ)もありませんでした。
これは竜神さまのお怒りだ、りゅうげ丸が暴れ出したのだと、恐れおののいてしまいました。こんな悲惨なことのあと里人は、再び竜神さまが荒れることがないように相談して、そのすみかに、蓋をしてしまったそうです。また麓に、竜神を祀る社殿をつくりお祭りをするようになったそうです。
むかしから『竜』は、『麟』・『鳳』・『亀』とともに四霊といわれ、優れたものの代表とされている。なかでも『竜』は、水中に住む想像上の動物で、自由に飛行し、雲を起こし、雨を降らせるとされ、水徳を司る神として、稲作人の信仰の対象とされてきた。
この竜蓋(崖)山の名は、こゝに岩岳丸の残党『りゅうげ丸』の伝説が伝っているが、その『りゅうげ』の名に付会したものであろう。もと/\この地方一帯は、豊饒の神である竜蛇神の信仰厚い土地である。
竜崖山麓の宮本には、野上大明神とも正一位湯泉大明神とも称した綾都比(綾問)(あやとい)の古社がある。綾織御前のほか、〓御前、池御前、虎御前、麻御前の五竜女がまつられていた。山号を、五竜山と称す明神さまである。『創垂可継』=野上温泉縁起)
竜崖山一帯は、綾織伝説地の御亭山と対峙している山で、同じく竜神信仰の地であった。私達は、これらから『竜崖山』の伝説の風土を考察することができる。また『竜蓋山』のことを地元では『りゅうげ』と呼びならわしている。これは『要害(ようがい)』の訛言とみられる。実際に、岩岳丸の残党『りゅうげ丸』がこの要害に拠ったのかも知れない。こゝらに、歴史的事実と伝承とが封じこめられていることが推察できよう。