むかし、むかしのお話であります。鏡が池のある玉藻稲荷社の神域は、一面の籔(やぶ)で、うっ蒼たる杉木立のなかに囲まれていました。千古を経た老樹も交っていて、昼なお暗く、一歩足を踏み入れると背筋が、ぞっとする位でありました。
ある日のことです。近くの森で、元山(もとやま)(樵(きこり))が、杉の小枝を払っていましたが、『斧』が切れなくなったので、鏡が池の畔にきて傍の石で斧を磨ぎ初めました。このとき、急に雨が降り出しました。今の今まで、雲ひとつない晴天でありましたのに、おかしいこともあるものだと思いましたが、そのときは、余り気にも留めませんでした。
しかし、このことが、二度も三度も重なりますと、偶然のことだと片付けるわけにはいきません。
鏡が池の石で、斧を磨ぐと、どうして雨が降るのだろうか。村の誰に聞いても、「そんな馬鹿なことがあるものか」と、本気にする者はありません。しかし、現実に斧を磨ぐと雨が降るから不思議でなりません。村人は、斧を磨ぐと雨が降るので、『磨ぎ石』だとか『雨降り石』などと呼ぶようになりました。そのうち、池で斧を磨いだ元山が急死してしまいました。人々は奇怪なこともあるものだと、近寄る者はいなくなりました。
こんな噂を耳にした村の長者は、その話を肯定するかのように「むかしから、玉藻稲荷社境内で、薪を樵(こ)ったり、立木を伐ったり、神域を犯したりすると、祟りがあったものだ」と、村人達に話されたそうです。
ある日のことです。近くの森で、元山(もとやま)(樵(きこり))が、杉の小枝を払っていましたが、『斧』が切れなくなったので、鏡が池の畔にきて傍の石で斧を磨ぎ初めました。このとき、急に雨が降り出しました。今の今まで、雲ひとつない晴天でありましたのに、おかしいこともあるものだと思いましたが、そのときは、余り気にも留めませんでした。
しかし、このことが、二度も三度も重なりますと、偶然のことだと片付けるわけにはいきません。
鏡が池の石で、斧を磨ぐと、どうして雨が降るのだろうか。村の誰に聞いても、「そんな馬鹿なことがあるものか」と、本気にする者はありません。しかし、現実に斧を磨ぐと雨が降るから不思議でなりません。村人は、斧を磨ぐと雨が降るので、『磨ぎ石』だとか『雨降り石』などと呼ぶようになりました。そのうち、池で斧を磨いだ元山が急死してしまいました。人々は奇怪なこともあるものだと、近寄る者はいなくなりました。
こんな噂を耳にした村の長者は、その話を肯定するかのように「むかしから、玉藻稲荷社境内で、薪を樵(こ)ったり、立木を伐ったり、神域を犯したりすると、祟りがあったものだ」と、村人達に話されたそうです。
『磨ぎ石』は、雨乞いの習俗へと発想の展開がみられたのではないかと考えられる。むかしから、神仏が宿る社叢等は、神聖な場所、霊域とし、これを損うことは、もったいないことと考えてきたのでした。山の神をまつる社地の樹木をきったりしてはいけないとする禁忌もそのことである。
『鏡が池』伝説で、最も人口に膾炙している正統的な伝説に『玉藻の前』があるが、これは、『九尾の狐』伝説の項で改めて誌すことにする。