二、九尾の狐伝説にまつわる話 『玉藻の前』の伝承

1005 ~ 1007

下野国那須郡篠原竹

 広漠たる那須野は狩座(かりくら)の地で、源頼朝による遊猟の地であり、妖気を誘う『玉藻の前(たまものまえ)』(九尾の狐)が狩られたと伝う篠原の地である。この歴史的風土の中から、数々の『九尾の狐』伝説が誕生し語り継がれている。『九尾狐伝説』は、那須の『殺生石』にまつわるものとして、人口に膾炙している。
 火を噴く那須の茶臼岳の麓に『殺生石』がある。(那須湯本)
  (注)この地は旧黒羽藩領であった。
 芭蕉が、『石の香や夏草赤く露あつし』『曽良随行日記』と草し、桃隣が「哀れさや石を枕に夏の虫」『陸奥鵆』と詠み、また麻布が「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」と歌い上げたところである。殺生石は黒ずんだ輝石安山岩で、今も付近の硫気孔から有毒ガスを噴出している。また『創垂可継(そうすいかけい)』(封域郷村誌)にも「――この山(那須岳)の南の麓に殺生石あり、鳥獣をこの石の悪気立ち登りて害殺す。俗人(くにひと)、狐の霊と言うは非なり。按ずるに砒霜石」とある。
 那須の殺生石は、文学作品『たまものさうし』佐阿弥(さあみ)が作った謡曲『殺生石』(古名、那須野)で知られ、歌舞伎や浄瑠璃にも脚色され、狂言として演ぜられてきた。
 謡曲には『石魂』と『玄翁』等が登場してくる。その筋は「玄翁和尚が陸奥(みちのく)から上洛する道すがら、那須野を通り、里の女から鬼神『玉藻の前』が石(殺生石)と化し、毒気を放ち、人畜を害していることを聞いて、これを供養し、成仏させた」ということである。
 すなわち、前段で玉藻の前の美麗な容姿を描き、一夕清涼殿で管弦の遊びが催されたおり、殿中の灯火が風に吹き消されて闇に包まれると、「玉藻の前が身より光を放ちて、清涼殿を照らしければ、光大内に満ち満ちてひとへに月の如くなり」という、幻想的な場面が現出する。なお、後段では一転して、二つに割れた石の間から恐ろしい鬼神の姿となって登場する名場面へと展開される。

絵草紙「玉藻の悪霊」(蓮実彊蔵)

 狂言『釣狐』の圧巻は伯蔵王(狐)の語りとして、述べられる。次の箇処である。
 「伯蔵王(狐)(語り) 時々、仕形を伴う。総じて狐は、神にてまします。男ホー。伯蔵王(狐)天竺(てんじく)にては、やしおの宮、唐土(とうど)にてはきさらぎの宮、我が朝にては稲荷五社(いなりごしゃ)の明神(みょうじん)、これただしき神なり。男ホー。伯蔵王(狐)まった人皇(にんのう)七十四代(よだい)、鳥羽の院の上童(うえわらわ)に、玉藻(たまも)の前といいしも狐なり。君に御悩(ごのう)をかけしゆえ、安倍の泰成(あべのやすなり)占いて、壇に五色(ごしき)の幣を立て、薬師の法を行(おこな)いければ、叶わじとや思いけん、下野(しもつけ)の国那須野の原(なすのはら)へ落ちて行く。国内通(こくないつう)の者なれば、およそにしては叶わじと、三浦の介(みうらのすけ)・上総(かずさ)の介、両介に仰せ付けらるる。両介仰せ承り、家の面目これに過ぎじと、家の子若党引きつれて、那須野の原に下着(げちやく)して、犬は狐の相(そう)なれば、犬にて稽古あるべしとて、百日(ひやくにち)、犬をぞ射たりける。それより犬追う物ということ始まりたり。されば百日に満ずる日、大きなる狐矢さきに当って死すれば、君の御悩も直らせ給う。なおもその執心大石(たいせき)となって、人間のことは申すに及ばず、畜類・鳥類までも、その石の勢(いきおい)に当って死す。されば殺生をする石なればとて、殺生石とは付けられたり。」〈『狂言集』下(岩波刊)〉
 なお、伝説地(那須湯本)に、『殺生石』をもとにした歌舞伎劇の代表的狂言『玉藻前〓袂(あさひのたもと)』を公演した中村歌右衛門・松本幸四郎等によって記念碑が建てられた。
 那須地方の『九尾の狐』伝説は、那須湯本の『殺生石』を中心として、黒羽など那須の狩倉(かりくら)の地に多く伝えられている。
 黒羽は広漠な那須野の中にある。古くから『那須の篠原』と称えられたところで、源頼朝の那須遊猟の舞台であり、『蔵針(ぞうしん)』の里である。また源実朝が『武士(もののふ)の矢並みつくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原』『金槐集』と詠じたロマンの里である。
 黒羽地方の主な九尾伝説に、『赤子狐』・『犬追物』・『毬かけ坂』・『蜂の巣山』・『鍬柄塚』・『鏡が池』・『尾塚』等、数多く伝承し、話題も多彩である。
 元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉はこの旧跡を尋ねている。『おくのほそ道』本文にも「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、((二)参照)那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ」とある。