(三) 鏡が池

1008 ~ 1010
 むかしむかしのお話です。人皇七十六代近衛院のころ(一一四一~五四)三国伝来の金毛九尾白面の狐が、『玉藻の前』という美女に化けて、宮廷にお仕えしていました。玉藻の前はそれはそれは美しく艶やかでありましたので、帝(みかど)も、特別愛し、いつもお側近くに侍らせていました。
 たまたま帝がお病気になり、お気分がすぐれない日が続きました。すぐれた医者が診察しましたが、病因は少しも解りませんでした。これはと思う良薬を国々に探し求めさし上げましたが、病状は日を重ねるごとに進むばかりでありました。
 宮廷では、易(えき)の陰陽に基づいて卜筮(ぼくせい)を説く陰陽師阿部泰成を殿内にお召しになられて、御祈祷をなさいましたところ、「三国伝来の野干(やかん)である九尾の狐が、玉藻の前に化けて、帝をなやましている。」ことがわかりました。
 祈祷によって正体を見破られた白狐は、怪しげな光を発して、東国の空に向かって飛び去っていきました。
 宮廷で、その行方を探し求めましたところ那須野に逃げていったことがわかりました。
 久寿二年(一一五五)、勅命が下って、三浦介平義明と上総介平広常らが、多くの軍勢を整えて、那須野に下(くだ)りました。『黒埴(くろはに)の里(黒羽)』の八幡館や浅香内辺からも、地元の豪族が勢子を繰り出し、狐狩りに参加したとのことです。
 しかし那須野が原は名にしおう荒野で、容易に白狐の隠れ家を見付けることができませんでした。「都から早く退治するように」と、矢のような催促がありましたがどうしようもありません。八方探し倦(あぐ)ねたかたちで、心が焦るばかりでありました。
 ある日のことです。三浦介義明は、今日も一日徒労に終わるのかと思いながら、重い足を引き摺(ず)って、篠原辺に来たときのことです。
 めざす白狐の姿をみつけることができました。三浦介義明は、勇躍、追跡しましたが、籔のなかに潜んでしまったのか、その姿を見失ってしまいました。辺りは千古のむかしから斧が入ったことのない老木の茂みで篠が簇生し、葎(むぐら)がはびこり、探しようもありません。
 三浦介は力を落とし、鏡のような池の渕に立って、小休していました。池面近く延びた桜樹の枝に、蝉(せみ)がとまって、鳴いていました。
 三浦介の眼が水面を注視しました。蝉に化けた狐の正体が、鏡のような水面に映っていたからであります。
 三浦介は、逸(はや)る心を抑え、矢を番(つが)えて、蝉をめがけて放ち、難なく九尾の狐を狩ることができました。
 このことがあってから、この池を『鏡が池』と呼ぶようになったそうです。
 三浦介に討たれた『九尾の狐』の霊は、『殺生石』になって、毒気を吐き、人畜を悩ましたと言うことですが、那須野を通りすがった玄翁和尚に得度され、成仏したということです。
 また、玉藻の前の化生である『九尾の狐』の霊を慰めるため、篠原の地に『狐塚』を築き、玉藻稲荷社を創建したそうです。
 こうして、玉藻の前の化生である九尾の狐が退治され、帝の御健康が回復したことは申すまでもありません。
 このあと、那須野にも平安が続いたそうです。
(参考)狐の化け方の手段と方法には、雑多な形式があるが、『抱朴子』に「狐の寿は八百歳なり。三百歳の後、変化して人形(じんけい)となる。夜、尾を撃(う)ちて火を出(い)だす。髑髏(どくろ)を載せて、北斗を拝す。落ちざれば、すなわち人に変化す。」とある。また『しみのすみか物語』などにあるように、あたりなる池にひたりて、藻をとり、頭にうちかぶりなどして、人間に化けるものと信ぜられていた。九尾の狐の化生『玉藻の前』はこのことによるのであろうか。


狐が人間に化けるようす『しみのすみか物語』より

 常陸風記『久慈郡』の項に、次の説文がある。『鏡ヶ池伝説』の原点が、そこにみられる。
「郡(こほり)より西北(いぬゐ)のかた廿里(さと)に河内(かふち)の里あり。本(もと)は古々(ここ)の邑と名づく。俗(くにひと)の説(ことば)に、猿(さる)の聲(こゑ)を謂(い)ひて古々(ここ)と為す。東(ひむがし)の山に石の鏡あり。昔(むかし)、魑魅(おに)あり。萃集(あつま)りて鏡を翫(もてあそ)び見て、即(すなは)ち、自(おのずか)ら去りき。俗(くにひと)、疾(と)き(勢のはげしい)鬼も鏡に面(むか)へば自(おのづか)ら滅(ほろ)ぶといふ。有(あ)らゆる土は、色、青き紺(はなだ)の如く、畫(ゑ)に用(もち)ゐて麗(うるは)し。俗(くにひと)、阿乎爾(あをに)といひ、或(また)、加支川爾といふ。時に朝命(おほみこと)の隨(まにま)に、取りて進納(たてまつ)る。謂(い)はゆる久慈川の濫觴(みなもと)は猿聲(ここ)より出づ(以下は省く)」


 これをみてもわかるように、『鏡が池』伝説は、常陸風土記『石鏡』が、その根底にあって、九尾の狐退治のことが、それに付会したものと考えられる。
 即ち、『疾(と)き鬼も、鏡にむかへば自ら滅ぶ』という思想が、その奥にあるとみられるからである。
 なお『鏡が池』伝説の舞台に『桜樹と蝉』が登場してくるが、『茅(かや)と石竜(とかげ)』であったとも伝えている。篠原の地は今も清澄な池と桜樹がみられ、ロマンを秘めた別天地をなしている。