2、鵜黒の駒

1011 ~ 1014
 むかしむかしのお話です。黒埴(くろはに)の里といわれた黒羽の北の方に、五位(牛居)渕と呼ぶ那珂川の渕がありました。むかし牛がすんでいたというのでその名がつけられた景勝の地で、川鵜の生息地となっていました。
 この渕の東十余町ばかりの葉世田(長谷)村に野馬の群れがいました。そのなかに、可愛いらしい雌(め)馬がいて、飛鳥のように飛びまわっていました。
 ある日のことです。友馬にあって岩窟に落ち、足を折り動けなくなり深い谷に伏していました。
 どこからか鳥や獣が集って来て、餌にしようとしました。これをみた里人は、不便(ふびん)に思って助け出し、野干(やかん)や山犬が近づくことができないように、平場(ひらば)に柵(さく)を構え、堀をめぐらし、馬を養うことにしました。この馬は生まれが良かった上に、里人の面倒も良かったので、美しい馬に成長していきました。里人が見惚(みと)れる程でありました。
 またある日のことです。牛居渕にすんでいた鷲のように大きな雄の鵜が、数千羽の鵜群を従え、長谷田の溜にやってきました。それは鵜の大王かも知れません。
 この大きな鵜が、美しい馬の背にとまりました。馬が驚いてはねまわったので、鵜はすぐ飛び去りました。馬が静まりますとまた鵜がやって来ました。このようなことが度々繰り返されました。里人もめずらしいことだとみていましたがやがて、この鵜王と美しい駿馬との愛は結ばれました。
 承安元年(一一七一)三月十日己の刻に、瑞雲がたちこめたかと思うと、あの美しい馬が子を産みました。
 生まれた子馬は、並みの馬ではありませんでした。その姿は馬のようでありましたが、頭の毛は細くにわとりの頭の毛に似ていました。尾筒の毛は普通でしたが、短い毛は鳥の羽のようでありました。川を渡ることは自由自在で、恰も鵜が水で遊ぶようすに似ていました。足指の間に『水かき』でもあるのだろうかと、疑ってみたくなる程でありました。
 里人は集って相談しました。
 「これ程の名馬を自分たちのものにすることはおそれ多いことである。」と、地元の豪族であった長谷田次郎に相談して、那須国の太守であった須藤太郎資隆に進上申し上げました。
 資隆は「誠に世にも稀れな名馬である。むかし周の穆王の頃の『八駿の馬』(なかでも、驥という馬はその随一で、河海を問うことなく、足が早く、一日に千里も走る馬であった。)に勝(まさ)るとも劣らない名馬である。今は天下が乱れている。このような時、たいそうめずらしい馬が誕生したものだ。きっと那須の国のために役に立つ名馬になるだろう。」と申され、大変お喜びになられ、『鵜黒(うぐろ)の駒』と名付け、養育につとめ、立派に成長しました。


鵜黒余一駒

 たまたま、源頼朝が旗上げしたとき、那須十郎為隆と弟余一宗隆とが、義経のお供をしましたが、このとき、為隆は父資隆から『鵜黒の駒』を給りました。
 那須余一宗隆は、兄の為隆から鵜黒の駒を譲られ、この馬に乗り屋島で戦い、扇の的を射て、賞讃を一身に浴びたことは、よく知られていることであります。(『那須記』による)

 この『余一誕生』にまつわる『須藤権守貞信が岩岳丸を退治した怨魂(えんこん)が後世の余一出生にまで祟る。」という話と、『鵜黒の駒』誕生にまつわる話とは、一連のものと考えられる。郷土史家のなかにこれらの伝説中の『鵜黒の駒』は『余一』そのものではないかと、推察するものがある位である。
 長谷田の溜は『駒込(こまごめ)の池』のことである。これは長谷田川をせきとめて造った人工の溜であろう。因みに『韋提』は『井堰』・『用水路』のことであるから、このころ那須国造の『直韋提』は、溜池をつくったりして盛んに新田を開いたりしたので、その名があると考えられる。なお現代も『駒込の池』あり、その近傍にもいくつかの『溜』があって、水田を潤している。

駒込の池(長谷田)

 伝説『駒込の池』に登場してくる『鵜』は、『余一誕生』伝説とも、何かの関係があるのだろうか。こゝで思い当たることは、『古事記』の『鵜葺草葺不合命の生誕』の項である。即ち
 「ここに海神(わたつみのかみ)の女豊玉毘売命(むすめとよたまひめの)、自(みづか)ら参出(まゐで)て白(まを)さく、『妾(あ)は巳(すで)に妊身(はら)み、今産む時になりぬ。こを念(おも)ふに、天っ神の御子(みこ)は海原(うなはら)に生むべからず。かれ、参出到(まゐできた)れり』とまをしき。ここに即ちその海辺の波限(なぎさ)に、鵜(う)の羽(は)を葺草(かや)にして産殿(うぶや)を造りき。ここにその産殿未だ葺きあへぬに、御腹(みはら)の急(せま)るに忍びず。かれ、産殿に入りましき。――」のくだりである。「鵜の羽を屋根の葺き草に用いる理由は、明らかでない。鵜が鮎などの魚を飲み、鵜匠の魚篭(びく)に、たやすく吐き出すので、鵜を安産の呪(まじな)いとしたのであろう。(『古事記』・講談社学術文庫)」と、先学は註を加えている。
 余一が母の胎内に二十四か月もいたということは、科学的にあり得ないロマンの世界である。天下一の弓取りとなった那須余一宗隆が、並みの者でないことを謳歌した『巨人伝説』とみられる。
 また『馬』と『鵜』との和合―婚姻のことは、異類結婚にまつわるもので、『狐女房』・『蛇女房』と共通の話題である。ただし、『鵜黒の駒』の場合は、水練の巧みな馬で、屋島の沖で活躍したことに因んで、水鳥の『鵜』を登場させたものと考えられる。