ところがその喜びも束の間、光隆等が高館に舞い戻った情報を察知した軍監梶原景時は、三河守範頼を大将とし、三千余騎を従え、攻め寄せてきました。
資隆はこの知らせを宇都宮朝綱から受け、驚きましたが、早速福原・佐久山・堅田(かただ)など一千余騎が馳せ参じ、堀や塀を築き、中(那珂)川に乱杭を打ち、逆茂木を立て、敵の攻城を待ち受けていました。
鎌倉勢は大挙して押し寄せてきましたが、高館のお城は嶮しい山城であった上に、那珂川の水が渦を巻いて流れていて、容易に攻め落とすことができませんでした。
何回となく激しい戦が繰り返されましたが、攻めあぐみ、その勢をそがれるばかりでありました。そして空しく月日を重ねていきました。
資隆はこの知らせを宇都宮朝綱から受け、驚きましたが、早速福原・佐久山・堅田(かただ)など一千余騎が馳せ参じ、堀や塀を築き、中(那珂)川に乱杭を打ち、逆茂木を立て、敵の攻城を待ち受けていました。
鎌倉勢は大挙して押し寄せてきましたが、高館のお城は嶮しい山城であった上に、那珂川の水が渦を巻いて流れていて、容易に攻め落とすことができませんでした。
何回となく激しい戦が繰り返されましたが、攻めあぐみ、その勢をそがれるばかりでありました。そして空しく月日を重ねていきました。