梶原景時は、一策を案じ、配下の雑兵を在家に遣わし、鶏を集めさせました。鶏に焔火をくくりつけ、攻め鼓と螺を合図に一斉に放し、高館の城に向かって追い上げました。
火をつけられた群鶏は、焔を振り立てながら狂奔しました。寄せ手の兵どもも野獣のように「わあっつ」・「うわあっ――」と咆哮しながら追い立て、駈け登りましたので、山一面が火の海と化し城内各所に火の手が拡がりました。しかし消火用の水は一滴もなく、施す術もありません。さすが堅固を誇ったこの城砦も、火にはかないません。城将たちの叱咤激励も空しく、終に落城してしまいました。
資隆等は、矢風に追われ、火に吹かれながら鎧を渕に落として、逃げのびました。
梶原景時が、高館のお城を攻めあぐんで、腰かけていた松は、今は枯れてしまいましたが里人はこれを『梶原の腰掛松』と呼んでいました。
資隆父子が鎧を落とし、身軽になって逃げのびたという渕が、今も那珂川にありますが、これを『鎧渕』と呼んでいます。
また、館下辺りの里人は「鶏を梶原方に奪われなかったら、高館のお城も、火攻めにあわなくてすんだろう、落城もしなかったろう。お殿さまに申し訳けない」と、それから後、この里では鶏を飼うことがなかったそうです。
火をつけられた群鶏は、焔を振り立てながら狂奔しました。寄せ手の兵どもも野獣のように「わあっつ」・「うわあっ――」と咆哮しながら追い立て、駈け登りましたので、山一面が火の海と化し城内各所に火の手が拡がりました。しかし消火用の水は一滴もなく、施す術もありません。さすが堅固を誇ったこの城砦も、火にはかないません。城将たちの叱咤激励も空しく、終に落城してしまいました。
資隆等は、矢風に追われ、火に吹かれながら鎧を渕に落として、逃げのびました。
梶原景時が、高館のお城を攻めあぐんで、腰かけていた松は、今は枯れてしまいましたが里人はこれを『梶原の腰掛松』と呼んでいました。
資隆父子が鎧を落とし、身軽になって逃げのびたという渕が、今も那珂川にありますが、これを『鎧渕』と呼んでいます。
また、館下辺りの里人は「鶏を梶原方に奪われなかったら、高館のお城も、火攻めにあわなくてすんだろう、落城もしなかったろう。お殿さまに申し訳けない」と、それから後、この里では鶏を飼うことがなかったそうです。
高館の落城は史実にないが、『那須記』に誌され口碑にもある。『白米城』に類する伝説は全国的なもので、益子の西明寺城等にもみられる。
『鶏を飼わない里』の話も、広く伝わっている。落城が『火鶏』に因るものとし、飼うことを禁忌としたものであるが、それにかゝわる話に『鶏が夜鳴きすると火事になる』という俗説がみられる。
鎌倉の頃は武士が活躍した。黒羽の地は、『黒埴(くろはに)の里』であり、『鵜黒(うぐろ)の里』でもある。また『蔵針(ぞうしん)の里』(蔵針=蜂が針を蔵し、危険を感じたとき剌すように、武士が平生農を営みながら、武芸を稽古し、いざという時のため、力を貯え蔵すること)と称されるだけあって、強者(つわもの)どもの夢の跡が多い。『大館』がそれであり、『高館』もそうである。(注、「中世城館跡」の項参照)
東山道を扼す那珂川の懸崖に立つ『高館』は、川田字五斗蒔と大輪字高館に跨る要害地で、文治年間(一一八五~八九)に、那須資隆(余一の父)が、神田城より移った所という。鐘つき堂、馬坂、東坂、稗田窪、大輪平、湯泉平(窪)の名が残っている。
この高館は景勝地で、春は桜花が満山を包み、秋は錦繍(しゅう)に綴られ、清流に懸る三滝の先に大那須野の大観が開け、遠い歳月を隔てゝ、強者どもの雄叫びが聞こえる。
那須余一宗隆の栄誉は史実を離れ伝承している。これからも永遠にこの風土に、そして人々の心の中にあたゝかく生き続けることであろう。