昭和九年(一九三四)九月、栃木県令により木炭の県営検査制度が施行され、各地に検査員の駐在事務所が設置された。黒羽町には栃木県木炭検査大田原支所黒羽駐在所が、黒羽田町滝沢庄四郎宅に設置された。旧黒羽町、旧川西町、湯津上村、旧両郷村を所管し、初代主任に熊田政雄、外に二名の検査員が駐在した。
旧須賀川村には、須賀川駐在所が須賀川村役場内に設置され、須賀川村を所管し、初代主任に屋代伝、外に一名の検査員が駐在した。
当時家庭の燃料は木炭薪等に依存し需用多く、両駐在所あわせて年間約十五万俵(一俵十五キロ)の生産があったと推定され、町内にも取扱高の多い薪炭商が軒を並べていた。
昭和十三年(一九三八)九月に木材の県営検査制度が施行され、両駐在所とも栃木県林産物検査大田原支所黒羽駐在所、須賀川駐在所と改名され、人員も増員され、黒羽五名、須賀川四名となった。当時の素材生産量は三万立方メートル程度と推定される。
昭和十二年(一九三七)には支那事変が勃発し、木炭木材とも軍用資材として調達され、次第に一般家庭への消費が制限された。
昭和十四年には、木炭が配給統制となり、自由消費ができなくなった。
昭和十八年(一九四三)には、薪の統制も施行され、木材については軍の割当供出が行われ、第二次大戦の深まりとともに、一般資材の逼迫の時代となった。当時検査員の業務は、検査はもとより増産指導と出荷割当の完遂が重要な業務であった。
昭和二十年(一九四五)三月各駐在所とも、那須地方事務所林務課の所管となった。この時黒羽駐在所は黒羽田町より黒羽向町熊田政雄宅に移転した。同年八月終戦となったが、国内の生活物資は逼迫の極限に達しており、林産物についても同様で、特に木炭自動車の出現により、薪炭の需要は急増した。また木材についても、戦災復興に山林の大部分が伐採された。当時は、町内の製材工場は、二十を数え木材業者も六十名に達した。素材の生産量は、年七万立方メートル、木炭は二十万俵と推定される。かゝる情勢から、林産物の需給調整規則が制定され、移動消費等についての制限がなされた。
昭和二十五年(一九五〇)頃になり、世相も安定のきざしがあらわれ、石油の輸入により、木炭車の姿も消え、薪炭、木材の消費量も安定し始めた為、需給調整規則も廃止され、同年五月には、薪炭木材とも希望検査制度となり、強制検査制度は廃止された。これにともない須賀川駐在所が廃止され、黒羽駐在所に合併された。然しながら木炭については、俵(たわら)によって包装される為、悪質業者による粗悪木炭が多量に出荷された為、同年十二月再び強制検査制度が施行された。当時は吉成隆外二名の検査員によって、業務が執行されていた。
昭和二十九年(一九五四)十一月。県の機構改革により、大田原林業事務所黒羽林産物検査吏員駐在所となり、遠山勝義外一名の検査員が配置され、昭和四十六年(一九七一)の検査制度廃止まで検査業務を執行していた。この間、駐在所を次のように移動した。昭和二十九年から昭和三十三年まで、川西農協北側の川上己芳宅、昭和三十三年から昭和三十八年までは、旧川西町役場、(現在、黒羽町商工会館)昭和三十八年(一九六三)から昭和四十六年(一九七一)までは、黒羽田町黒羽商工会議所(現在、田町集会場)である。昭和四十六年駐在所廃止となり、職員は大田原林業事務所勤務となった。
昭和三十年の木炭生産量は、九万三百八十俵、昭和三十五年は十二万二千九百俵、昭和四十年は七万九千百三十四俵、昭和四十五年は一万二千百五十二俵、昭和五十年は三千五百五十一俵、昭和五十二年は一千三百十七俵となっている。
昭和三十年(一九五五)から昭和四十年代の日本経済の高度成長、燃料革命により、生活様式が変化し、木炭の需要は昭和三十五年(一九六〇)をピークに激減し、現在では日本伝統の茶の湯の席か、往時をなつかしむ人のぜいたくな趣向品として愛用される程度となってしまった。
木材については、昭和三十七年(一九六二)の素材生産量は五万立方メートル、町内の木材業者六十二名、製材業者二十八名、昭和四十五年(一九七〇)素材生産量は二万八千立方メートル、町内の木材業者五十二名、製材業者は二十七名となっている。
戦後の乱伐による蓄積材が極度に減少し、昭和二十五年(一九五〇)より現在まで育成期間であったが、昭和五十二年(一九七七)三月の黒羽町の林野火災は、焼失面積約六百町歩、その損失も亦莫大なものがあった。
昭和三十年(一九五五)代より、外材輸入が始まり、昭和四十年以来累年増加し、日本の総需要量の六十五パーセントが輸入であり世界的不況の中で内地材の価格も低迷を続ける為、山林育成に対する意欲も低下し、生産量も減少の一途をたどっている。