(二) 産業組合

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 品川弥二郎平田東助両氏の提唱により、産業組合法が制定公布されたのは明治三十三年三月六日で、産業組合は共存共栄相互扶助の精神を基調とし、農村金融流通面に力を入れ、他方農会は生産技術の指導と農政関係を担当し、農村にあっては車の両輪のごとく離れ難いものであった。
 然し当時経済諸団体の多くは失敗に終っていたので、県の再三の勧誘にもかゝわらず設立は黒羽、川西、須賀川等おくれた模様である。
 たゞ両郷産業組合は、昭和七年十二月創立二十五周年記念に作成した無限責任両郷信用購買販売利用組合の沿革誌に、組合設立の動機として次のように書いてある(原文のまゝ)
  組合設立動機
 本村ハ元中野内・河原・両郷・寺宿・木佐美・大久保・久野又・大輪・川田ノ九ケ村ナリシガ自治制実施ト同時ニ一村一団トナリシ為メ意志ノ疎通ヲ欠キ村内、二ツノ党派ニ分レ何レノ問題ニ就テモ紛争絶間ナク県下随一ノ難村ニ数ヘラルヽニ至レリ偶々明治四十年郡会議員改選ニ際シ両派ハ互ニ候補者ヲ推シテ一村総出ノ運動ヲ開始スルナド益々両派ノ軋轢激烈トナリ、此等感情上ノ問題ハ一村ノ平和ヲ害シ将来村民ノ利害休戚ニ至大ノ関係ヲ及ボシ本村ノ前途寒心ニ堪ヘザルモノアリ茲ニ於テ村ノ有志ハ大ニ之ヲ憂慮シ村民大会ヲ催シテ会衆ニ諮リ将来各自ノ幸福ヲ増進シ一村平和ヲ図リ共同ノ利益ヲ収ムルニハ産業組合ヲ組織シ一致団結シテ其効果ヲ収ムベシト議決シ直ニ各部落ニ一名宛ノ委員ヲ挙ゲ之ガ同意ヲ募リ二百八十九ノ賛成ヲ得テ無限責任両郷共同購売組合ヲ設立シ明治四十年十二月二十三日ヲ以テ県知事
ノ許可ヲ得タリ
産業組合の設立状況 昭和十六年末現在
組合名設立年月日事務所所在地区域組合長
無○両郷信販購利明治四十年十二月二十三日両郷村大字中野内渡辺政一郎
保○黒羽〃大正十年六月二十一日黒羽町大字黒羽田町小室一造
保○川西〃大正十四年四月二日川西町大字黒羽向町菊池三之助
保○須賀川〃昭和九年十二月二十六日須賀川村大字須佐木渡辺栄作
保 寒井信購販大正九年六月二十八日川西町大字寒井部落池沢金重郎
東野鉄道 購川西町大字黒羽向町植竹春彦
○印は米穀統制組合事業代行組合ヲ示ス(県農業団体史より)

 これより先無限責任須賀川信用組合が明治三十四年十二月二十七日設立許可されているがその後は不詳である。
 大正三年世界大戦勃発に伴い、一般農作物は高騰し農村経済は未曽有の繁栄をもたらし、貯金の増加、その他販売購買事業等いづれも大正四年を起点として躍進し産業組合の充実強化が図られたが、昭和九年アメリカで起った恐慌は我が国にも波及し、昭和初期の有名な農業恐慌はこれであり、この影響は産業組合にも及んだ。
 1、貸付金の増加
 2、貸付金が未回収となり資金が固定化した
 3、貸付金利息が延滞がちになった。
 4、貯金の受け入れが少なくなって来た
 5、購買が著しく減少し売掛金が増加した
 6、未収金が回収困難となって来た。

 このことにより各産業組合は次の方策を行った。
 1、再生産に必要な資金に対し動産不動産を担保として貸付する
 2、肥料資金については連帯貸付とする回収については生産物代金を充ること
 3、組合員の高利な債務はこれを低利なものに借換させる
 4、金利の低下を図ること

 このことはただ黒羽町の産業組合のみでなく県下一般の考え方である。
 昭和十二年七月日華事変を転機としてわが国経済界は一路統制下の線を辿っていったが、産業組合も又国家機関化の傾向を深めていった。
  太平洋戦争と産業組合の活動方針
 昭和十六年十二月八日米英に対して宣戦の大詔が換発され、国内の体制はこれを転機に戦時体制が一段と強化され、産業組合も戦時国策の遂行に邁進することになった。
 昭和十七年四月十一日県下産業組合会議を開催、産業組合として採るべき方針を次の通り決定した。
 1、食糧増産の完遂
 2、保健対策の強化
 3、資金対策の強化  貯蓄の増強
 4、戦時業務の完遂

 この頃より農業団体の統合は既定の方針となった。
 歴代組合長並びに黒羽町に関係ある役員及び表彰者は次の通り。
 黒羽町信用購買販売利用組合歴代組合長
  松本六六 小室一造  和知鉄三郎
 川西町信用購買販売利用組合歴代組合長
  飯島元太郎  田子兼吉  菊池三之助  須藤忠蔵
 両郷村信用購買販売利用組合歴代組合長
  渡辺政一郎  佐藤格  渡辺政一郎
須賀川村信用購買販売利用組合
 渡辺栄作
 中央会表彰組合
  大正三年十一月 無限責任両郷信用購買販売組合
 当時中央会は全国中央会と云い県中央会は栃木支会と称す。この表彰は、大正四年より昭和十五年まで約二十五年間県下で紅綬功労者三名、緑綬功労者二十三名であり、表彰組合は明治四十二年より大正十一年までで十二組合であった。(農業団体史による)