(三) 農業会

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 農業団体の統合はすでに相当長い期間検討されて来たが、昭和十二年支那事変が勃発し、続いて昭和十六年十二月八日、米英に対し宣戦を布告し、世界戦争にまで発展した。その為食糧事情も極めて悪く、戦費を賄う資金も一切国民の力にまつ外なく、農会及び産業組合は食糧増産と貯金の吸収を余儀なくされていた時代であった為、農業団体法が昭和十八年九月に施行されると、黒羽町の産業組合は一斉に改組に着手した。
 現在当時の資料が乏しく、黒羽町四農業会の発足について各地区のものは詳らかでないが、たゞ両郷村農会と産業組合の設立書類があるので、その大要を記すことにする。
 農業団体法が施行されると、産業組合長渡辺政一郎農会長大塚英雄の両者で昭和十九年三月までに農業会を設立発足させること。事務所は産業組合に置くこと。農会の職員は農業会の職員とすること。産業組合の各自持分並びに産業組合の資産はそのまゝ農業会に引継ぐこと等確約した。
 然しこの農業団体法は戦時下であり、非民主的なものであった。栃木県知事安積得也より産業組合並びに農会に対し、昭和十九年三月十七日付で「農業団体法八十八条の規定に依り其の法人に対し解散を命す」これで解散させ、同年三月二十四日県経済部長より「速ニ所定ノ手続ニ依リ設立完了セシメラレ度云云」とあり、農業会の会則等は県にて一律に印刷したものであった。
 会長は別記の通り県が任命した。
 会則第十条「本会ニ会長一人、副会長一人、理事五人以内、監事三人以内ヲ置ク、但シ特別ノ事由アルトキハ其ノ他ノ者ヨリ之ヲ為スヲ妨ケス」とある。
 昭和十九年三月の総会議事録によると、役員推せんの選考者は、地方事務所長産業組合及び農会の役員、村参与の方々と熟議の上と書いてあり、会長は官選に近いものであった。
 会長の推せんについては、左記の通り村長の意見書が県に提出された。
  推せんセラレタル市町村農業会長ニ対スル意見
  昭和十九年三月二十二日
    那須郡両郷村長 大塚英雄
 栃木県知事安積得也殿
昭和十九年三月二十一日開催ノ農業会設立総会ニ於テ、会長トシテ渡辺政一郎ヲ推セン有之候処農業団体法二十九条ニ依ル意見書左記ノ通リニ有之候也
      記
意見
 両郷村農業会長トナルベキ渡辺政一郎氏ハ過去ニ於テ県会議員三期ヲ勤メ又永ク県農会長県煙草耕作組合〓合会長等勤続シ村内ニ於テモ村長三期勤続シ或ハ農会長等ヲ勤メ村産業組合長ハ創立以来三十有余年ニ亙リ勤続シ徳望全村ニ高シ稍高齢ナリト雖尚矍鑠トシテ勤務シ支障ナク最適任ナリト認ム(以上原文のまゝ)
 前記の通り、農業会長は村長が県に意見書を提出し県が任命した。このことは川西農業会の沿革誌にも記載されており、当時大東亜戦争が如何に緊迫されていたかが窺うことが出来る。
 農業会の主な事業は、食糧増産にあり当時供出の割当は市町村が行い、農業会は供出の実行責任団体として、農家より米・麦・甘藷・馬鈴薯等出荷させた。
 昭和二十一・二年産主要食糧は、代替食糧が認められ、大豆・小豆・そば・稗等玄米換算で供出出来たが、町村農業会にとっては事務的に相当困難なものであった。
 一方、一般家庭用のガスが一定量以上絶対禁止となり木炭薪が不足し、しかも軍事産業用の需要は増加の一途を辿り、黒羽地方に於ては学童を動員し、山元より集荷所までの背負出しを行った。一般農家も薪の供出等により、地区別に共同で薪切りを行う状態であった。当時の自動車は代燃車としてガソリンを使用せず、木炭ガスで運行したためこの方面でも木炭は貴重であった。
 昭和二十九年度両郷農業会の木炭・薪の出荷数量は木炭五万七千四百六十五俵薪二万五千二百二十三束であった。
 昭和十九年十二月三十日の役員協議録に松根油緊急増産のことが記載されている。戦争の長期化に伴って、航空機燃料はいよいよ逼迫、軍はこの供給源として松根油の採取に着想した。しかし、このことは手労働に依るところ多く、応召・軍事工場への転出等によって労力の不足の折、容易でなかったのであるが、唯一の燃料源として既に難易を問う場合でなかった。農業会はその実行責任者として国より要請された。軍の説明によれば「松根油はガソリンとして飛行機用に、又重油として船舶用に絶対必要であり、特にB二九追撃用には性能高く、唯一の資源である」各農業会に乾溜釜の割当があり、川西農業会八基・黒羽十基・両郷十六基・須賀川十四基であった。
 この製造行程は所謂「ヒデ」のある根源を乾溜釜に入れて燻蒸し、その滴たる油をとるもので、副産物としてタールもとれた。抜根作業は留守家族全員で行い、相当重労働であり、難事業であった。
 昭和二十年九月七日の両郷農業会役員会議事録に、松根油事業報告として、松根油百本経費五万円今後の業務は(八月十五日終戦)経済事情の推移を見極めて開始することとある。この会議は終戦後のものであり、この松根油が到着した頃は大東亜戦争が終結されたものと思考する。
 終戦後は、食糧事情の悪化、インフレイションの激化、日銀流通高は二十五倍をこえ、小売物価は公定で平均二倍半、ヤミで平均三十倍にもなった。この為、昭和二十一年二月金融緊急措置令を発し、金融機関の預金の払いもどしは、原則として停止するとともに、三月三日から日銀券は効力を失うことになった。預金は封鎖され、新円が発行され、一人月額五百円(初めは百円のちに七百円)の制限内に於て旧券と引替が認められた。各農業会に於ても、農家の手持現金・有価証券等に証紙を貼り封鎖した。
昭和二十二年度両郷農業会決算書
   主要勘定のみ円以下切捨
出資金借入金預金有価証券貸付金貯金
九二、九六〇七七、八六四三、八八七、三三三三五八、八二三二〇〇、三四〇五、一八三、八八九

 当時、各農業会は貯蓄増強、国債消化、国防生産資金供給確保のため、貯蓄の奨励を行ったためと農村は穀類野菜等いながらにしてヤミで売れ、物資は統制で買いたい物も買えなかったため、貯蓄は前記の通り飛躍的に増加し、貸付金は極めて少なかった。有価証券は国債・地方債・興行債券・勧業債券・台湾拓殖債券・北支開発債券・中支振興社債等であり農業会も国策に総力をあげて協力したのである。
 農業会組合長
川西農業会 菊池三之助  須藤忠蔵  菊池達郎
黒羽農業会 豊田得三  斉藤酉之助  大野清司
両郷農業会 渡辺政一郎  大森初太郎  狸塚栄
須賀川農業会 菊池憲智