農協の設立は極めて短時日に完成したが、まだ戦後のインフレが収束されず、泡沫的な農村景気が部分的に見られ、政治的には農地改革による農民解放の風潮する中であり、農協の設立は農業会の看板の塗り替えにすぎないと云はれたが、事実はまさにその通りであった。
組合名 | 事務所 | 設立年月日 | 組合員 | 出資金 | 組合長 |
川西町 | 黒羽向町四四九 | 昭和二三、八、四 | 五五一 | 二九七、四〇〇 | 池澤文吾 |
黒羽町 | 黒羽田町三三 | 昭和二三、五、二五 | 七五〇 | 三八五、七〇〇 | 大野清司 |
須賀川東部 | 須賀川一六八一 | 昭和二三、五、三一 | 不明 | 一一八、〇二〇 | 菊池甚之助 |
須賀川西部 | 須佐木二〇三 | 昭和二三、四、一六 | 四四四 | 二一二、八二〇 | 渡辺栄作 |
両郷 | 中野内七九〇 | 昭和二三、四、二一 | 九四九 | 三四一、五〇〇 | 狸塚栄 |
役員選挙の方法が大きく改変された。産業組合時代は議長の指命又は選考委員による選出方法であったが、農業協同組合は投票によることになって、政治屋の動きが活発となり、出資金百円を投じ一農家に数人の組合員を仕立て投票した。従って左記の通り組合員が急激に増加した
農協 | 川西 | 黒羽 | 須賀川 | 両郷 |
年度 |
昭和十六年 | 三九二 | 六一四 | 五六四 | 五八八 |
設立当時 | 五一四 | 七〇四 | 四〇一 | 八六四 |
須賀川東部は設立当時の組合員数は不明であるが、昭和二十四年六月末の組合員は二二〇人となっている。尚須賀川東部は二十五年度の栃木県農業協同組合要覧に載っていないので、二十四年末に西部と合併し須賀川農業協同組合となった。