3 増資運動の展開

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増資については一単協百万円を目標として昭和二十四年第一次増資運動、二十五年第二次増資運動、昭和二十六年第三次運動を展開し昭和二十七年度払込済出資金は川西農協百拾八万三千円、黒羽百二拾九万五千円、須賀川四十万八千円、両郷百九十万三千円とやゝ目標は達成したが固定資産も年々増加し、川西農協の固定資産百四十三万五千円、黒羽農協九十三万円、須賀川農協百三十八万七千円、両郷農協二百拾万二千円となり増資は進展したが、固定資産の度合に対比して農協財務体制を安定させるものではなかった。これは農業の後進性を示す一面で、すなわちわが国経済の成長にとり残され、目標に近づいた時はまた自己資金(出資金)の不足となり追いつかなかったのである。
 両郷産業組合の昭和五年度第二十三回事業報告書を見ると、当時の出資金は五万八千二百円で、準備金積立金七万二百円、自己資金合計拾二万八千二百円となり、固定資産は九千九百八十二円である。昭和五年の米一俵当り拾円二十四銭、昭和五十五年産米価一俵当り一万七千七百九十二円(基準米価)とすると、一七三七倍となり自己資金は、二億二千六十八万三千四百円となる。今期の剰余金一万二千七十円配当は六分の割で組合員はこの配当金で正月の費用を賄うことが出来たと云われていた。
昭和元年より10年までの米価
(玄米1俵当り)
昭和金額
円 銭
115 14
214 10
312 41
411 63
510 24
67 39
78 47
88 65
910 44
1011 95
(深川正米相場年間平均)

 発足当時から昭和三十年頃までの農協の多くは、貯金借入金等他人の資本による事業運営のため、利子負担によって収益率が低下し二十四年度末の県下農協の損失金を繰越すもの五十五組合を数え、なお詳細にみると、約半数の単協が赤字をかかえていた。(農業協同組合史)
 二十四年から二十五年はまさに農協の経営危機が叫ばれたときで、本県に於ても貯金の払い戻し制限、又は払戻し停止の単協があちこちにみられる状態となった。幸い黒羽町の四農協は貯払制限は行わなかったが経営は困難であった。
 昭和二十八年、第四次増資十億円三ケ年計画が提唱され各農協もこの達成に努力したが、固定資産の増加に追いつけず、第五次第六次と増資運動を行い、昭和五十四年度に黒羽農協は、増資二ケ年計画で組合員五千万、役職員一千万円計六千万の計画を行い、五千八百三十一万五千円の増資申込があり、五十五年度末に一億七千万になる見込である。
昭和五十四年度末出資金と固定資産(単位千円)
黒羽農業協同組合川西農業協同組合
出資金固定資産出資金固定資産
一四五、〇九二一五六、一二一六六、三六七一一八、八〇〇