大字川上は、もと黒羽藩領の大多羅(おおたら)村辺らしい。
文化十四年(一八一七)に書き上げられた『創垂可継』(封域郷村誌)によると同村の家数は二十五軒とある。
当時の川上村は、かなり広い範囲を総称したという。同誌によると川上村は南方境より大多羅境まで二十二町余、家数三十五軒あり、南方村は同組南方村と呼ばれていた。現在の行政区とはかなりちがっている。
大字川上内の地名に宮前・原・中原・東山・中島・葎・小草・東田・堂下・西町・堰の入などがある。
集落名は川上と総称している。『宮前』は早期に開けたところで『山根(やまんね)』にも旧家がある。『宮前』の名は大己貴命を祀る『大頭龍神社のお宮の前』という意味をもっていた。現在は姿を消したが、宮前から社頭まで杉並木の参道が長く続いていたらしい。
大頭龍神社の境内社(川上)