一、黒埴(くろはに)説

1103 ~ 1103
 黒羽の曙(あけぼの)は縄文期(じょうもんき)とみられているが、那珂川上流に開けた古代那須国の一環(いっかん)として、黒い土と水徳に恵まれたこの里は、豊饒(ほうじょう)の歡をみたところである。
 黒い土は万物の母であり、黒羽の名は母なる黒埴の語が、黒羽(くろばね)に転化したとみられる。『埴』は『はに』とか『はね』とも読まれ、稲作に適する湿地の沃土(よくど)に付けられた。従ってこの説はずばり『くろはね説』と唱(とな)えた方がよいかと思われる。
 この地名の原初(げんしょ)は旧黒羽城北の丘陵地とその周辺の低地一帯とみられる。なお、鎌倉のころの古館址『八幡館(はちまんだて)』にある鎮国社(ちんこくしゃ)境内の碑『八竜神・風神・雷神・八祇神』にも、黒羽城主『大関伊予守増儀(おおぜきいよのかみますよし)』の名と共に『黒埴城頭謹袷祖奉崇鎮国祇神』と刻んであることからみても、藩主自らが『黒羽城』名を『黒埴城』と別称していたことがわかる。また家臣でも『黒埴』の名を用いていたことがメモに誌されてある。これらはこの説を考訂(こうてい)する資料の一つをなしている。