二、鵜黒(うぐろ)説

1103 ~ 1104
 那須余一宗隆(なすのよいちむねたか)が屋島の戦で扇の的を射て、地方豪族から、鎌倉御家人(ごけにん)としての地位を確保し五箇庄を賜ったが、その栄誉を称える心をこめて、余一の乗馬『鵜黒(うぐろ)の駒』に因(ちな)んで地名としたとする説で、この鵜黒を黒鵜(くろう)と読み替え、さらに黒羽(くろう)と改め、これをくろばねと読むようになったとみる。
 なおこの伝承地(でんしょうち)に『八幡館(はちまんだて)』・『岩谷要害(いわやようがい)』のある丘陵地北麓の谷合い『長谷田(はせだ)』の『駒込池(こまごめいけ)』がある。この地は『鵜黒の柵(さく)』と呼ばれる要衝地(ようしょうち)で、池はその頃築かれた井堰(いせき)による灌概(かんがい)用溜(ため)らしい。鵜黒の駒はこゝの中(なか)ボッチで、牛居渕(ごいぶち)から飛来した鷲(わし)のような大きな鵜と、小さな野飼いの俊馬との間に承安元年(一一七一)三月十日に生まれた名馬で、那須家の重臣地元の『葉(長)世田(はせだ)次郎』を通じて、那須高館(たかだて)の館主『資隆(すけたか)』に献(けん)じたとも伝えられている。