三、黒羽根(くろばね)説

1104 ~ 1104
 黒羽を『黒羽根(くろばね)』と誌した古文書(こもんじょ)がたま/\みられる。公文書では正徳二年(一七一二)『徳川家宣(いえのぶ)』から『大関信濃守(おおぜきしなののかみ)(増恒(ますつね))』への御朱印状(ごしゅいんじょう)に次の記載がみられる。
 「下野国黒羽根領那須芳賀弐郡之内六拾九箇村地都合壱万八千石事[目録具載別紙]依寛文以来旧規充行之訖宣有領知者他仍如件
    正徳二年四月十一日 家宣
                大関信濃守とのへ」

 また丹治比(たじひ)系伝九の『大関世系』の高増の項に「(上略)慶長三年(一五九八)戊戌十一月十四日卒七十二歳法号弘境院殿栽岩道松大居士葬于野州黒羽根光厳寺」とあり『黒羽根』と誌してある。これらの資料は重みがあるが、この文書一つだけで、正しくは黒羽根(くろはねね)と誌すとは断定できない。しかし『はね』を『羽』または『羽根』と読み書きする場合が多く、『くろばね』を『黒羽根』と誌す慣用例がかなりあったことは確かである。
 『黒羽根』は中世のころ、豪族・武将などが占拠(せんきょ)した館地の根ぎわ一帯に付けられた名である。
 黒埴(くろはに)(真黒な腐蝕土(ふしょくど)の泥深(どろふか)いふけ田)に接続する丘の端は、居宅(きょたく)を構えるのに適し集落の発生がみられるところである。旧黒羽城北一帯の地や白旗(しらはた)丘陵の根ぎわにある余瀬(よぜ)などはその模式的(もしきてき)なところである。堀之内(ほりのうち)とか根岸(ねぎし)、根小屋(ねごや)などと呼ばれるところは同根(こん)の集落(しゅうらく)名である。
 黒羽はまた『くれは』又は『くろは』と読むことができる。屋根のいちばん高い所を『くれ』と言い、また水田の畦(あぜ)を『くろ』とか『くれ』とか呼ぶ方言例があるが、『黒羽根』と呼ぶ集落はこの地形に相応しい『くれ』(丘陵)の『は』(端)に立地している。この点からみるとこの説を『くれは説』または『くろは説』と置き換えてもよい。
 なお呉(くれ)は、むかしわが国から中国をさしていった語、または韓(から)の転語(てんご)とか、句麗(くり)の訛語(かご)とかに考えられていたことから類推(るいすい)すると、この地の開発にも、新羅(しらぎ)などの帰化人(きかじん)などのかゝわりがあったのではないだろうか。
 黒羽の地名考説は定説がなく、その他諸説が考えられよう。
 (注)『ふるさと雑記』による。