諸本により異同がある。余一(長門本平家物語、前賢故実)、餘一(大日本史、大田原市福原玄性寺墓塔)、餘一郎(下野国誌)、与一(平家物語、源平盛衰記、本朝通鑑、武鑑、那須記、栃木通鑑)、余市(那須系図譜)、与市(保暦間記、山城名跡志、野史)。
一般に用いられた男子の呼び名は、長男は太郎、次男は二郎、三男は三郎と順次数え、十一男は十餘る一郎であるから、餘一郎が正しい呼び名であろう。これを略した余一を本書では採ることにした。
『日本の歴史』に拠れば古くは、平維茂は十五郎(貞盛の十五男)にあたるため余五ともよばれた例がある。十余る五郎の意味である。
宗隆についても、助宗、資宗、資高、助高、宗高、資隆等諸本によって異るが、宗隆(大日本史、野史、那須系図説)を採る。なお文治五年八月、後鳥羽天皇に拝謁し、那須下野守に任ぜられた時、名を資隆と改めた。資高助高は誤記である。