余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多い。むしろ謎に包まれているというべきである。
まずその出生の地についても、郷土史家の間に論争があって、小川神田城に生れたとする説、黒羽高館城に生れたとする説が提起されている。この点に関しては、那須氏の居城が、神田城――境村稲積城――高館城と移動しているので、神田城の廃城、高館城の築城の時期、そして移住の時期が明確になれば、おのずから余一出生の城も解明されることになろう。
余一は文治五年(一一八九)八月八日、伏見に於て病歿した。時に廿四歳、あるいは廿歳、廿二歳ともいわれている。これより逆算すればその出生の年は、廿四歳説==永万元年(一一六五)、廿二歳説==仁安二年(一一六七)、廿歳説==嘉応元年(一一六九)、ということになる。
さて、『那須系図説』によれば、那須資満は、平治の乱(一一五九)に源義朝の軍に従って戦死、次男資房が家を継いだ。源氏が敗北し、平家の天下となったので、資房は神田城に居ること能わず弟宗資とともに甲斐の稲積庄に隠れた。後に平氏に赦され永万元年(一一六五)下野に帰り、兄の後を襲った宗資は、下境村に稲積城を築いて住む。宗資死して子無く、相州の山内首藤義通の四男が那須氏を継いだ。余一の父の資隆である。資隆は高館城を築き(永万元年の頃という)、稲積城から移り住んだのである。この頃すでに神田城は廃城となっていたようである。従って資隆は神田城には住んだことがないのであるから、その子息は神田城生れということにはならないわけである。
余一の死亡年齢は、諸文献によって異説があり定め難いのであるから、その生年月日は未詳というほかはないようである。生れた城も、稲積城か高館城かは、今にわかには決め難い。