源頼朝が平家討伐の旗を挙げたのは、治承四年(一一八〇)八月。奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せていた義経は、兄頼朝の挙兵を聞き、その陣に馳せ参じようと、平泉を出発したのは同年十月のことであった。関街道を上って、下野国那須郡粟野宿(余瀬)に着いた義経は、かつて祖先源頼義がこの地において軍兵を募った故事を知り、近く高館に城を構えておる那須氏の武名を聞き及ぶや直ちに資隆に募兵の件を申し入れたわけである。資隆は先に養父が平氏の赦免により、下野に帰り得た関係もあって、平氏の招きに応じて、子息の太郎光隆以下九郎朝隆までの九名を、平氏に属させたのであった。
しかし、那須氏はもともと源氏に属していた。資隆は義経の申し入れを否むこともできず、高館城に残して置いた十郎為隆、余一郎宗隆の二人を余瀬の宿舎に遣わした。これが世にいう白旗山上の主従の誓約である。時に余一は十五歳であったといわれている。那須氏は十一人の兄弟が源平の敵味方に分かれて、相戦うという悲劇となったのである。