「與一鏑を取ってつがひ、よっぴいて、ひゃうと放つ。小兵という條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦ひゞく程に長鳴して、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふっとぞ射切ったる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ上りける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるが、沖には平家、舷をたゝいて感じたり、陸には源氏、箙をたゝいてどよめきけり」(平家物語)
余一は天晴れ、三国一の弓矢の名人の名を挙げたのである。時に「與一その頃は未だ二十ばかりの男なり」(平家物語)と年齢を記している。また余一が扇の的を射るに当って、「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光の権現、宇都の宮那須の温泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させてたばせ給へ」と祈念した。松尾芭蕉が金丸八幡宮に詣でた際、この文章を思い出して『おくのほそ道』に記してある。
那須余一の図(富山祥雲画)