平氏は滅亡し、元暦二年四月源氏の将兵は鎌倉に凱旋した。頼朝は余一の戦功を賞して、五個所の荘園を与えた。そして余一はやがて那須の総領となる。
これより先、為隆、宗隆二人の兄弟は、家臣角田刑部源内を密使として屋島に遣わし、九人の兄達に勧めて平氏より脱陣させた。太郎光隆は八人の弟を連れ、夜ひそかに屋島を脱出し、東山道を経て父資隆の高館城にはいった。
このことがやがて鎌倉に伝わり、文治二年(一一八六)頼朝は資隆に九名の兄弟追放を厳命した。資隆は子息たちを逃して、自分は高館城を棄て、福原城に謹慎した。(那須郡誌)
頼朝の命による梶原平三景時の高館城攻撃は、『那須記』には詳細に述べてあるが、虚構である。
後に十人(義経の陣から脱した為隆が加わって)の兄弟たちは、鎌倉におる余一宗隆に頼み、頼朝に恩赦を嘆願した。さいわいに許されて、打ち揃って那須に帰ることができた。そうして十人は分知され、それぞれ城を持つ身になった。文治三年のことである。