七、余一の終焉

1109 ~ 1109
 文治五年(一一八九)八月、余一は一族郎党を引き具して上洛、石清水八幡宮に参詣した。屋島の戦に扇の的を射る際、八幡宮に祈願したのでその報賽のためであった。
 参詣を終って翌日御所に参内し、後鳥羽天皇に拝謁して、那須下野守に任ぜられた。父の名を襲い、名を資隆と改めた。
 余一当地に滞在中、俄に発病し、伏見の即成院(那須の荘園寄進の寺)に於て療養につとめたが、間もなく死亡した。行年二十四歳といわれている。墓は即成院の本堂裏にある。
 法名は月山洞大禅定門。