二 仏国国師

1110 ~ 1111
 東山雲巌寺(とうざんうんがんじ)の開山仏国国師は、法名を顕日(けんにち)と言い、高峰(こうほう)と号し、字(あざな)を密道という。寂後に仏国禅師―応供広済(おうぐこうさい)国師の諡(おくりな)を賜っている。世に仏国国師という称号で知られている。

仏国国師画像

 国師は仁治二年(一二四一)土御門上皇の皇子邦仁(くにひと)親王(即位後の後嵯峨天皇)の皇子として、京都の離宮で誕生した。
 康元元年(一二五六)十六歳のとき、京都の東福寺で円爾(えんに)に従って出家し、真摯な求道(ぐどう)僧として、「坐禅小僧」の名を得た。
 文応元年(一二六〇)鎌倉建長寺にて南宗の名僧兀庵普寧(ごつたんふねい)の会下となる。
 翌二年、(二十一歳)鎌倉の禅林を離れ、下野の那須に隠遁(いんとん)し、茅(かや)を除いて仮庵を構え、ここを終焉(しゅうえん)の地と定めたという。
 ついで檀越(だんのつ)が宏壮な殿堂を寄せ、雲巌寺を開いた。道香 薫郁(くんいく)とし参ずる衆僧千余、筑前、横岳崇福寺大応国師南浦紹明(なんぼじょうみん)とともに「二甘露門」と称されたという。
 弘安四年(一二八一)仏光国師無学祖元より伝法受衣あり、その好種草〝法嗣(ほっす)〟となったのである。
 弘安八年(一二八五)仏光国師の懸識(けんしん)(予言)「綿綿(めんめん)たる瓜〓」(注、『詩経』)の瑞祥(ずいしょう)あり。この語句は、その後、反橋の橋名「瓜〓橋」となっている。
 翌九年仏光国師が示寂(じじゃく)すると、遺髪の分与を受け正宗塔(しょうじゅうとう)を建て、さらに師の仏光国師を雲巌寺の勧請開山とした。
 やがて仏国国師は鎌倉に招かれ、正安二年(一三〇〇)浄妙寺の住持に就任、嘉元元年(一三〇三)に万寿寺に入られた。この住持中に夢窓疎石・大燈国師宗峰妙超(注、京都大徳寺の開山)・仏応禅師太平妙準などが弟子となっている。
 嘉元三年、国師は浄智寺の住持になり、徳治二年(一三〇七)再び万寿寺に移ったが、この時期に、夢窓に印可を与え、相伝の法衣を授けている。
延慶(えんぎょう)二年(一三〇九)那須の旧隠「雲巌寺」に帰られた。この時高弟夢窓は甲斐から来山し、書記の職を司り、国師の化(け)を助けた。
 正和元年(一三一二)、鎌倉浄智寺に再住し、同三年に大禅林建長寺の住持に任命された。
 同四年正月退院(ついえん)して、那須の雲巌に帰られたのである。
 正和五年(一三一六)十月二十日
  坐脱立亡(ざだつりゆうぼう) 平地骨堆(へいちのこつたい)
  虚空飜筋斗(こくうにきんとをひるがえし) 刹海動風雷(せつかいにふうらいをどうず)
 という遺偈(ゆいげ)を書し喝(かつ)一喝して坐禅のまゝ入寂された。世寿七十六歳であった。雲巌寺に葬り、分骨を浄智寺の正統庵に塔を建て安置した。(注、正統庵は後に建長寺に移された。)雲巌寺には、仏国国師などの木像を安置した三仏塔と国師の塔所(たっしょ)がある。(宝篋印塔)
 その後、仏国禅師という勅諡号が宣下され、さらに応供広済(おうぐこうさい)国師と加謚された。
『仏国禅師初住下野州東山雲巌禅寺語録』は、世に『仏国録』と称せられているが、刊行年代は南北朝時代(一三三四~九二)の開版とみられている。なお巻中の『機縁問答』は、序・跋などからみると嘉暦元年(一三二六)に編集されたものである。
 新しい仏教の灯をともされた国師の示寂後、門弟・法孫等により、勧請開山とした寺院が多くみられた。さらに国師の名は京都の五山以下の諸大寺が国師の遠諱(おんぎ)法要などが営まれるに及んでにわかに五山に鳴り響いたという。
 仏国国師の御歌に
  月はさしくひなはたたくまきの戸を
  あるしかほにもあくるやま風
 
  野こころのまたやはらかぬ牛を得て
  うちたゆむなよまきのふちふち

がある。