三 太平妙準(仏応禅師)

1111 ~ 1112
 東山雲巌寺第二世仏応禅師は、藤原姓、諱は妙準、字は太平。仏国禅師応供広済国師の弟子で、岩舟(いわふね)地蔵大薩埵(さった)の垂跡(すいじゃく)と称せられ、仏法を相承(そうじょう)し、法灯を輝かす。
 妙準は大豆田村の出身である。父、礒主計豊末は川西郷の郷士で長(おさ)百姓である。妻は福原左近の娘美佐起である。岩舟地蔵尊心願の霊験あり、建長六甲寅年(一二五四)四月二十四日男子出産、彦太郎と命名、文永元甲子年(一二六四)、仏国国師の弟子となり、妙準と改め、ついに印可を受く。(礒家の家系図による、なお、出生については建治二年の説などあり)遍(あまね)く諸善知識を参玄し、奥を尽し、源を窮して、終に師の嘱を受け東山第二世となる。
 妙準は最も長く仏国国師に随時した門人で、浄智・浄妙・建長の諸山にも住した。
『仏応禅師の頂相賛(ちんそうさん)』(大喜法忻(ほつきん)書)に、「法を法に随ひて 行じ、在々 百千の法門を開く。道(どう)は元(もと) 方所無く、刹々(せつせつ) 仏国の乾坤(けんこん)を立す。東山三世(注、勧請開山仏光国師を第一世、開山仏国国師を第二世とみた場合、仏応を第三世とする。東山雲巌寺作成の『住持歴代』では、勧請開山を別格とし、妙準を第二世とする。)の主と為(な)りて、補処(ふしよ)の尊(そん)と称へられ、円照四代の衣を伝へて、的骨(てきこつ)の孫(そん)あり。載(すなわ)ち瞻(み) 載ち拝するや、日は重昏(ちようこん)を破(は)し、以(もつ)て儼(げん)以て温、春は芳園に入る。夫(そ)れ是(こ)れそ之れ鹿(ろく)山の跨竈(こそう)・竜淵(りゆうえん)の正源(しようげん) と謂(い)ひつべき者なり。」とある。
 仏国国師の高足の一人、天岸慧広(てんがんえこう)は、仏光と仏国との問答書を主として『機縁問答』を編集しましたが、太平妙準は枢翁(すうおう)妙環(注、雲巌寺に住し、建長寺にも昇住した。)・秀巌玄挺(しゅうがんげんてい)(注、能仁寺・長楽寺に住す。)等と雲巌・浄妙・浄智・建長等各寺の住山の語録を加えて、『仏国禅師語録』を刊行した。
 妙準は、仏国の「伝衣付法」を受けた夢窓疎石(むそうそせき)(正覚国師)と親しかったという。夢窓、雲巌寺で国師の化(け)を助けし時、元翁本元(げんのうほんげん)(注、美濃の古渓(こけい)に隠棲、京都の臨川寺を開き、南禅寺に住す。)と共に夢窓の立場の良き理解者であったという。『夢窓正覚心宗普済国師の語録』に「太平和尚」のことあり。そのなかに「――人の為にする則には柔有り剛有り。法乘の〓〓(げいげつ)、祖門の〓梁(れいりよう)。仏光の轍(てつ)を革(あらた)め、仏国の羊(よう)を証す。尽(ことごと)く謂(い)ふ、此の老 徒(と)を匡(ただ)すこと三両刹(せつ)に止(とど)まる而己(のみ)と。道(り)ふことを見ずや?処々蹤迹無し、地獄と天堂と。」とある。宜(うべ)なり。
(注)京都の天竜寺―相国寺、鎌倉の瑞泉寺、甲州の恵林寺など、諸山の住職を歴任す

仏応禅師画像

 妙準、雲巌の正宗庵に朽衰を養ったが、嘉暦二年丁卯(一三二七)遷化す。世寿五十二歳。
 入寂後夢窓は、鎌倉の浄智寺に正源庵を建てこれに塔し、骨器の銘を自刻している。その銘に「師、諱(いみな)は妙準、自ら太平(たいへい)と号す。下野州(しもつけのくに)の人、姓は平(たいら)。本州雲巌(うんがん)の高峰(こうほう)和尚より伝法し、并(あわ)せて無準(むじゆん)和尚の信衣(しんえ)を親受せしの的子なり。嘉暦丁卯閏九月弐十四日の卯の刻に示寂す。世寿五十、僧臈(そうろう)三十。辞世の頌(じゆ)に云(い)わく、『末後(まつご)の一句、向下(きようげ) 文長し。処々無蹤跡(むしようせき)、地獄と天堂と。』
  丁卯仲冬      属末の夢窓疎石」
 のち諡(おくりな)されて仏応禅師という。