四 大虫宗岑(妙徳禅師)

1112 ~ 1114
 大虫(だいちゅう)禅師は東山雲巌寺の中興開山であり、安碩入道未庵が光厳寺で帰依した高僧で、『長沙録(ちょうしゃろく)』は天下に知られている。

『長沙録』大虫宗岑

 大虫禅師は常陸国(ひたちのくに)筑波山の下(ほとり)である小田(おだ)の村邑(むらざと)に生まれた。
 つねに童友と遊戯したが殺生(せっしょう)を嫌って生草さえ折ることがなかったという。眼光すぐれ志気盛んで童群を抽(ぬき)んでいたという。人、見て奇児なりと称し、父母もその穎脱(えいだつ)を愛した。
 漸く長ずるに及んで、巣月(そうげつ)院(大雄山法雲寺にあり)の済家西堂(せいとう)に投じて出家を求めた。済栄、一見し喜びほめていう。「この児、凡にあらず。思うに菩薩の再生ならんか。後に必ず優(すぐ)れて大教を補助(ふじよ)するだろう」と。直に落髪して、諱(いみな)を宗岑(そうしん)と号し、無住妙徳禅師とも称す。
 その後、足陽(あしかが)に入って多年儒業を学び、広く群書を漁(あさ)って読んだが、わが家(や)の事(じ)にあらざることを悟って、これを捨て帰家した。
 〓草(はつそう) 参玄の志あり。初めて妙心なる月航が室に入って参玄するの次(つい)で、前(さき)の大徳大室和尚が法雲に乍住(そじゆう)するに当り、入室参請(さんしよう) 両三霜なり。駿府(すんぷ)の臨済 太原和尚が室に入って参請すること五秋なり。その後、勢州白子(いせしろこ)の竜源なる妙心江南の室に入って、請益(しんやく) 痛棒を喫すること六七霜、旦(あした)に省処(せいじよ)あって、機々投合、終に法を嗣ぎて東国に帰る。
 両回、総州(しもうさ)の瑞雲山大竜寺に住し、その後、会津(あいづ)の瑞雲山興徳禅寺に住すること六七霜なり。(『大虫禅師行録(あんろく)』による。)
 この頃は、戦国争乱の最中(さなか)である。天正四年(一五七六)大関高増が白旗から黒羽に移城した歳であり、五年には上杉謙信が大軍を率いて唐沢山城を攻め、六年は佐竹義重が壬生城・皆川城などを攻めた歳である。
 戦乱のためか、東山雲巌寺は主席を虚(むな)しくしていた。光厳の老尚は合衆に謀り、専使を命じ、羽檄(うげき)を飛ばし、宗岑に請住を求めた。拒辞隔歳、終に戊寅(天正六年=一五七八)冬の孟(はじめ)、請に応じ影堂(ようどう)の塵を掃う。
 五山派に属していた雲巌寺の法系は、この時から妙心寺関山慧玄(かんざんえげん)の法系となる。
 宗岑は寺法を再興した。東山の鎮守「熊野大権現」新造遷宮時の法語に「熊野より移し来たる―徐福(じよふく)の廟、東山 高く仰ぐ―幾星霜ぞ、勉旃(べんせん)せよ!護法・護人の処、桑城、蓬来(ほうらい) 日月長(とこ)しへ(え)なり。」(天正辛巳九年=一五八一、十一月)とある。
 この歳の夏六月、瓜〓橋が倒れ、山門の往来を鎖し、緑苔(りよくたい) 逕(こみち)を鎖(と)ざし、碧蘿(へきら)門を掩(おお)うことあり。宗岑は大檀越(だんのつ)那須資晴の命を奉じ、奉行大関安碩斎(高増)、同清増、大田原貞弘らの精志を励まし胆心を傾け、天正十二年(一五八四)暮春に工を起し、同十三年初夏にこれを成就す。志ある半銭粒米(りゆうまい)、寸鉄尺木(せきもく)、衆財を集いて大成し、瓜〓綿綿たり。吉日良辰を択(えら)び合山(がつさん)の清衆(しようしゆ)を集め『大仏頂万行首楞厳神呪(しゆりようごんじんしゆう)』を諷踊(ふじゆ)す。(注、瓜〓橋再造・延宝五年=一六七七)
 深谷に清香な『仏法の鳥』あり。宗岑の詩に「聞く麼(や)? 鳥も亦(また)三宝を唱ふ。末法 慚(は)づ可し―仏名(ぶつみよう)を忘るることを」。この霊鳥は『慈悲心鳥』とも呼ばれる。同禅師の詩に「頻(しき)りに慈悲と喚(さけ)べども汝を容(ゆる)さじ、巣(そう)辺の茅箭(ぼうせん)月弓を懸(か)く」とある。(『長沙録』による)
 大虫和尚の肖像自賛に「咄哉(とつさい)! 頭面(ずめん) 馬歟(か)? 牛か? 錯(あやま)ちて丹青(たんじよう) を把(と)りて髑髏(どくろ) を彩(いろど)る。画けども成らず 我とは何似(いずれ)ぞ? 百年 東海の一沙鴎(さおう)。」(天正甲申(十二)年=一五八四)
 自叙に「岑(しん)上座、凡才の野鹿(やろく)、僧中の唖羊(あよう)。吾(われ)を盤特(はんどく)の愚頑とや首(もう)さむ、―苔(じよう)を誦(ず)するも箒(しゆう)を忘ず。他(か)の越(じよう)州の貧乏(ひんぼう)に慣(なら)ふや、―薪(しん)を縛(ばく)して床(じよう)に補す。可憐生(かりんせい)! 錐(すい)を卓するの地無し。也太奇(やたいき) 選仏場に陪するのみ。」とある。(天正十三乙酉=一五八五林鐘(みなづき)の日)
 宗岑は雲巌にあること十年許りで退院(ついえん)し、正宗塔下に閑居して老衰を養うこと年あり。これ天正十四丙戌の年(一五八六)であった。
 東山雲巌禅寺退院の上堂にあたり、伝法の沙門宗岑は「拈提(ねんてい)」のなかで「(前略)『錯(あやま)りて名藍(めいらん)を董(ただ)して 昨(きのう)の非を知りぬ、住山の〓斧(とつぷ) 他に付して帰らむ。暁猿(ぎようえん)・夜鶴(やかく) 吾(われ)に随(したが)ふや 否や? 七五の閑雲 半ば扉(いえ)に坐す。』天正十四年丙戌の春王(むつき)廿八 前妙心大虫七十五翁 九拝」と述べ、修行の深さは、測り知れないものがある。大虫宗岑は東山雲巌寺中興開山と仰がれている。(『長沙録』による。)
 宗岑は末後、正覚山実相院光厳寺に住し、法灯を輝かせた。大関安碩斎は禅師に深く帰依し「未庵」と号した。『未庵記』(黒羽町蔵)の末尾に「干時天正十五龍集丁亥仲冬如意珠日、前妙心大蟲七十六翁於光厳丈室書」とある。
 宗岑は久しからずして疾苦無きに寿(よわい)八十七霜、寂然として化を示せり。同寺に葬る。