五 鈴木掃部右門

1114 ~ 1115
 鈴木掃部右門は、諱を重郷といい、下野那須郡大蔵村(現在黒羽町大字河原)の人であった。父は常陸佐竹氏に仕えていたが、佐竹氏出羽に移る際老を理由に出羽に行かず大蔵村前堀に移り、姓を菊池より鈴木と改め農耕を営み名主であった。
 掃部右門は父歿後若年にしてその職につき実直にして明敏慈愛に富みよく村人を修めたが不毛の耕地多く村人の貧窮することを見かね減租嘆願を度々したが容れられなかった。ついに一命を賭して上聞に達し、ようやく七年目に郡奉行代官等出向き実地見聞の上、不毛の荒地に対する多額の償租及び助郷等免除となり領民大いに喜び安堵したという。
 延宝元年(一六七三)以前は前堀外所々に、家々が散在して当村名主の職にあるもの、その支配に不便であったため以前松葉川の大洪水により捨地になっていた縦一四〇間横四〇間の荒地を開拓してこゝに民戸を移し公私の便を計るよう地頭に願い延宝元年三月許可を得て前堀、横道、八津、志道内、円應寺より二十六戸を移し、沿道間口七間を一戸として町形を作り中間に水堀を通し村の中央に問屋を設け往来の便益を計った(問屋とは次立場を言ふ当時大蔵村は奥州街道の横道であった)
 これにより藩主大関信濃守は労を犒い特に西側中央の二十三間四方の土地を与え翌年工事は終了し二十六戸全部が移住した、黒羽藩は大蔵村を改め河原村とした。

河原宿近傍図

 開墾に力を入れ、その収穫は以前の倍となり円應寺村を編入して一、八五八石となり郡中大村となった又名主及び問屋の両役を行い当時武門政治の権威盛んな時よくこの事業をなし遂げたこと、誠に名名主であった。
 貞享三年(一六八六)七十五歳天寿を全うす。
 大正六年三月重郷翁二五〇年忌に当たり大字河原八津地内にその事蹟を記した大石碑を建立した。
 篆額は大関増輝。撰文は東京帝國大學教授理學博士白井光太郎による。
  参考文献(下野國河原村由緒書鈴木嗣男氏所蔵 両郷村郷土誌)