鹿子畑氏は大田原氏から出た。代々旧上江川大字鹿子畑に館を構えて住み、鹿子畑を称した。鹿子畑能登の代に、大田原資清の長男高増が大関氏を嗣ぐことになり、能登は高増(時に十五歳)の後見役としてついて来、白旗城下の余瀬に居を構えた。子孫代々余瀬に住んだ。
家老左内高明は、藩政改革(地方(じかた)を改め蔵米給与)の失敗の責を負い、退身し(寛文七年)妻子と共に江戸に赴いた。時に高明四十歳、長男高勝七歳、次男豊明六歳であった。後に帰藩を許された延宝七年(一六七九)まで、十二年間を江戸に住んだ。この江戸在住の後半の時期に、高勝、豊明は松尾芭蕉の門下生となった。師の俳号「桃青」の「桃」をいただいて、兄は「桃雪」弟は「翠桃」(『おくのほそ道』には「桃翠」とあり、その他の俳諧書には「翠桃」とあるので、ここでは「翠桃」とした。)
元禄二年(一六八九)奥の細道の旅に出た芭蕉はその途次、桃雪、翠桃の二人の愛弟子を黒羽に訪れた。『おくのほそ道』には、
「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其の弟桃翠などいふが朝夕勤めとぶらひ、自らの家にも伴なひて……………」とあり、曽良の『随行日記』には、
一、同三日快晴。………大田原ヨリ黒羽ヘ三リト云モ二リ余也。翠桃ヨゼト云所也トテ弐十丁程アトヘモドル也
とあって、四月三日余瀬到着より同十六日出発まで、十三泊十四日間を黒羽の地に滞在した。芭蕉は二人の弟子の手厚いもてなしを歓び、また黒羽の文化に魅力を感じてか、このような長逗留となったのである。この間に翠桃宅には五泊を過ごし、歴史・伝説の跡を尋ねたり、歌仙も興行している。余瀬の人では、翠桃以下三名が列席した。
奈須余瀬翠桃を尋て
秣(まぐさ)おふ人を枝折(しをり)の夏野哉 芭蕉
青き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉 翠桃
(以下省略)
翠桃の墓は余瀬の通称土手の内(鹿子畑家の住居跡)北側の隣接地。墓石には「不説軒一忠怒唯居士」と、向かって左側には「きゆるとは我はおもはじ露の玉色こそかはれ花ともみゆ覧」の辞世が刻まれてある。子孫は文化文政の頃黒羽町堀之内に居を移したが、大正年代に至って名門鹿子畑家は廃絶した。
鹿子畑翠桃の墓