東野、十四、五歳のころ黒羽を去って東都に行き、当時関宿侯の儒医である程子学派の儒者中野〓謙に学んだ。のちに安藤宗純の養子となり、その姓を冒し安藤仁右衛門煥圖と言った。いくばくもなくして復古学派の儒者物徂徠を師として学び、才気大いに発し、〓園の五家の一人となった。
宝永年中、柳沢吉保侯の儒臣となった。宝永中、将軍綱吉に柳沢邸に於て経を講じた時、時服と白金を下賜された。正徳元年致仕したが侯は三年の間禄を給せられた。正徳元年(一七一一)辞して西台侯本多猗蘭の賓師となった。初め芝材木町に住み、また上野下にも住んだ。のちに駒込白山に住んで〓丘丈人また白楡社と号した。
東野、幼にして大志あり、医家となるより典籍を学び立ち、その名を不朽にしようと決意して東都に登り〓軒に学んだ。徂徠が古文辞を唱えたが業未だ大いに振わなかった時、東野は山縣周南と共にその門に歸し遂に羽翼となった。徂徠は終えに海内に木鐸となることができたので「二子を待つ者、群弟子に異なり」1と言った。
東野は「俊傑不羣、之に加うるに刻苦淬勵天性に出づ。其の鴻文鉅藻、既に〓苑に魁たり。惜しい哉卒に劬悴を以て咯血の疾を致して歿す。年僅に三十七。世の交不交者とを問はず、之を惜しまざるは莫し。鳴呼天少しく之に年を假さば、殆ど量るべからざりし也。」2と竹林貫一氏は評した。また、華音に通じ、音律を善くしまた字に工みであった。
東野は享保四年(一七一九)四月十三日歿した。年三十七歳。子が無かった。浅茅が原福寿院に葬った。墓碑は同門服部南郭が銘したという。徂徠その死を惜み「彼に年を假さば我及ばず」とたたえた。
東野に「東野遺稿上中下三巻」がある。東野には生存中一著も上木がない。徂徠はじめ同門の友人これを惜み、遺稿をあつめ輯録したのがこれである。友人石川叔潭・山井君彝・根本伯脩が之に当った。太宰純は序に「東壁之文学。真天下之奇才也。(略)不可不傳也。」と述べた。また同郷の儒者秋元淡園が「鳴呼余之所善故友人、藤東壁歿而二十歳、余生同郷、惟郷同也、哉悲、夫今茲元文三年云々」と心を込めて序を記した。更に、周南・宮田 明も叙した。梓行は東野歿後三十年、寛延二年(一七四九)五月梓行である。
東野遺稿
1~2竹林貫一編「漢学吉伝記集成」
『創垂可継』諸臣系略