九 戸田茂睡

1119 ~ 1120
 茂睡は旧姓を渡辺と言う。寛永六年(一六二九)五月十九日駿府城内三の丸に生まれた。父は渡辺山城守忠、母は高家大澤基宿の女でその六男である。初め名を馮、通称茂右衛門、諱を恭光、号を茂睡・茂妥と言う。また、別号を梨本。隠家・馮雲寺・不忘庵老茂・最忍法師・老茂・遺佚軒・不求橋・露寒軒等と言う。
 茂睡の父忠は、戸田忠勝の次男で、台命により渡辺山城守茂に養われ六千石を賜わり、駿河大納言忠長の附人となり大番頭をつとめた。忠長が罪に問われ幽凶させられた時、忠は黒羽藩大関土佐守高増に預けられ、六拾五人扶持金拾五両を合力せられた。時に寛永十年(一六三三)恭光五歳であった。恭光は父に従って黒羽に赴き成長し、明暦元年(一六五五)ごろ(二十二歳)江戸の伯父戸田政次に養われ、三州岡崎藩主本多忠國に家禄三百石をもって仕え、江戸本郷森川の藩邸内に居住した。のち寛永十一年ごろ(四十四歳)の藩政改革のとき致仕し、二十年の武士の生活を放れ、浅草金龍寺の辺に居を構えた。万治三年(一六六〇)宮部甚兵衛の娘お兵を娶り三男一女を儲けた。また丸山本明寺谷にも住んだ。元禄十二年(一六九九)妻お兵の死去後七年の宝永三年(一七〇六)四月十四日歿した。享年七十八歳。浅草金龍寺に葬った。
 茂睡は初め和歌を竹内惟庸、清水谷実業に批点を乞い、元禄五年従兄山名義豊(玉山)から飛鳥井家の都通伝を受け遂に一家をなした。寛文五年(一六六五)正月三十七歳のときに歌学に関する宣言を書いて歌道の復古を唱え、二条流を排斥した。すなわち、自由・自然・真情・簡素・誠実を尊ぶことを説いた。「歌は大和言葉なれば、人のいふ詞を歌に詠まずといふ事なし」と極論し新風を鼓吹した。これらは茂睡の中心思想であって、後年(元禄十一年七十歳)に「梨本集五巻(元禄十三年刊)」を著し実例について論証した。また、さきには「百人一首雑談二巻(元禄五年)」には制調説を非難し、歌学革新を唱え、近世歌学の魁をなした。

『梨本集』戸田茂睡

 茂睡の著の主なものに、紫の一本・梨本書・鳥の迹・隠家百首・御当代記等がある。また兄明の子孫である黒羽田町の渡辺家には、左記した「梨本書一巻」と茂睡直筆の「重代三文裏銭由緒一巻」(国指定重要美術品)が蔵せられている。
    佐々木信綱著 戸田茂睡論
    同      日本歌学史
    茂睡全集