延享元年(一七四四)家禄二五〇石を継ぎ近侍となる。武助つとに農政に意を用い、領内各村に郷倉(ごうぐら)と称する穀倉を建て、毎年収穫の際一定の穀物を貯蔵して、凶作に備える法を立てた。明和五年(一七六八)郷方改役(ごうかたあらためやく)に就任直後、仕法趣旨を説き徹底させるため、領内を巡村し、その内容を解説して民意の掌握につとめた。又しばしば教令を出して勤倹貯蓄を奨励し、奢侈遊惰をいましめ、風俗の改善、産業の振興に意を用いた。天明三年(一七八三)の大凶作の際、関東地方の餓死者二十五万人といわれたが、黒羽領内は郷倉制度を生かして、一人の餓死者も出さなかった。武助は又心を社会政策に用い、当時この地方に流行していた悪習である間引(まびき)(産児制限)を禁止するため、間引の罪悪を説いた壁書(かべがき)をつくり各戸に配布し、その矯正につとめた。又労賃、米価、金利、等の統制の教令を出し生活の安定をはかった。ために藩の治績大いにあがり、名声天下にひびいた。幕吏に採用の申入れがあったが、武助はこれを謝絶し、終始藩政に専念した。
文化二年(一八〇五)に著した『農喩(のうゆ)』は、倹約と備荒の徹底によって、天災と飢饉から農民生活を防衛しようとする武助の農政思想を、もっとも端的に示したもので、凶作と飢饉に苦しむ当時の世相に、大きな反響をよびおこした。
武助の農政は、寛政改革期の幕府からも注目されるようになり、寛政二年(一七九〇)松平定信に国政についての建白書を上り、経世の策を陳述した。江戸市万一金積立等その建策が実施された。
晩年風病を患い、病床の人となったが、筆硯を友とし文化二年『農喩』を著した。又絵画を好くし諸家に珍蔵された。
文化三年(一八〇六)正月晦日七十五歳で卒した。黒羽町西崖(にしがけ)、長松院に葬った。法号を隆徳院殿義秀興仁賢宗大居士という。大正十二年(一九二三)十一月、武助の功績を賞して正五位を贈られた。