当時両郷村は塩谷郡の喜連川より芦野に通ずる奥州街道の間道であり、人馬の往来がはげしく交通を助けるため代官(幕府より派遣された役人)より割当てられ人馬の助郷役(人馬を供給すること)に扶役され、男は十五歳より六十歳まで殆ど絶間なく扶役に明け暮れ、農耕の暇がなかった。ために農事がおろそかになり生活難におちいり村を逃げ出すものも少なくなく村民の生活は益々苦しくなった。
瀬左衛門はこの困った有様を代官所に陳情して救済方を懇請したが聞き入れられなかった。止むを得ず死を決して江戸に上り幕府に出頭してその苦しさを訴え荒地になっている田畑の租税免除と扶役の減少を嘆願した。幕府はその事実を認め願の趣きを聞き届け金若干を下賜された。瀬左衛門喜んで帰郷して村民と謀り幕府の救助金を他村民に貸し、その利息を以て扶役の出費を支出して余りあれば、又之を貸付けて得た利息を貯蓄することにした。これにより貯金で租税の幾分かを支出することが出来た。
文政十一年(一八二八)瀬左衛門は老年の故を以て職を辞した。村民相談の上代官に願い子息齢助を父に代って庄屋にした。齢助も父の志をつぎ救助金の利殖の道を講じ天保十一年(一八四〇)に至り村内の租税賦役の公費はことごとくこれから支出することが出来た。この後剰余金は災難に会った人達も救助することが出来るようになった。天保六年(一八三五)十二月瀬左衛門は病んで死去した。年七十六歳であった。
嘉永三年(一八五〇)村民相謀り瀬左衛門父子の徳を永久に伝えるため黒羽藩儒者大沼金門(三田地山の師)に撰文を乞いその墓所に追慕の碑を建てた。其の銘は
父中二干國一子孝二千家一罩(ひいで)及二邨落(そんらく)一於レ思無邪
参考文献蓮実長著『わがふるさと』 両郷村郷土誌
渡辺瀬左衛門の碑
碑は松葉川特産の点紋粘板岩(松葉石)