隆雄は幼いころ国学を学び、また樹芸を好み東都三河島、巣鴨、染井等の植木屋に就いて種樹の法を求め、ついに和州吉野の里に至り、視察して大いに得る所があった。
黒羽に至り、藩に出仕しては公務の余暇に風雨寒暑をとわず童僕に先だって蓑笠を被り、山林を跋渉して地質を相し、適地に杉桧を植え、林業に盡瘁した。文化より文久に至る四十年間に十八万本に及んだ。
寛政のころまでは黒羽地方に実生苗圃の設けなく、自然生の小苗の移植、または挿木や寄技の法で仕立てていた。寛政三年(一七九一)黒羽山大雄寺二十七世元機和尚が奥州棚倉より晋山し、数年後に隆雄の父隆中に実生苗圃の有利なることを話し、杉の樹種を三つの指にてつまみ与えられた。隆中は教えられたように苗圃を造り播種し、苗を山に移植し、苗数七百本が出来た。それより年々子をとり苗圃に播き養って山に移し、十数年に数千本に達した。隆中は之を隆雄に伝えた。もとより祖父隆重は治山家であったので、隆中もその教えを受けていたと思われる。まことに三代にわたる植林事業家であった。
隆雄は父の教えに基づき、自から実験した造林法を集録し一巻となし、『太山の左知(とやまのさち)』と題し嘉永二巳酉(一八四九)の春之を著わし、隣里郷黨に頒つこと数十家に及んだ。また、嘉永四辛亥の春に隆中の教解を子孫に伝えるため山仕立の家法として記した。
隆雄は文久二年(一八六二)八月十七日病歿した。享年七十三歳、大雄寺に葬った。歿後二十一年、明治十五年(一八八二)大日本山林共進会に翁の遺著『太山の左知』を出品し、三等賞を賜った。次いで大正八年(一九一九)十月大日本山林会総裁、守正王殿下より追賞され、同年下野山林会第一回総会に於ても追賞された。大正十三年(一九二四)八月に、隆雄の恩澤餘恵今に至っており、造林撫育上の先人として徳風を永く鑚仰しようとする者相謀り、文学博士幸田成行撰文従三位勲二等山脇春樹書にて功績と遺徳を石に勒して黒羽神社の一隅に建立した。
太山の左知 興野隆雄翁略傳
隆中遺訓 興野隆雄碑
隆中遺訓 興野隆雄碑
興野隆雄翁の碑