日野商人は、中世八日市を中心とした近江保内(ほない)地方の商人のことで、十五世紀中葉以降、近江湖南を中心に伊勢(三重県)・美濃(岐阜県南部)・若狭(福井県西南部)から商都、さらに関東にまで行商を営み、享保(一七一六―三五)ごろから、それらの地方に店(みせ)を開く者が増えたという。久兵衛もその一人で、黒羽向町に定住した。
黒羽田町と向町の両街は、八溝山地の谷口、那珂川に臨む対村(ついそん)、さらに黒羽藩一万八千石の城下町として集落の発達をみたところで、街路と舟運が開け、問屋が置かれ、商家が軒を列ね、人馬の往来が繁く、町中は殷賑を極めたという。
しかし那珂川を挾む両街間は、橋梁がなく、渡船をもって人馬を往来させ、甚だ交通が不便であった。特に豪雨による河水氾濫時には、仮の板橋等が再三流失し、その障害が大きかった。
釜屋久兵衛は、この事態を深慮し、天保七年丙申歳(一八三六)、船橋を架し交通の便をはかるべく、私財を投じ試作に成功した。しかし洪水のため浮梁が再三流失し、惜しいかな工費が続かなかったという。
久兵衛は、性仁愛に富み、公共心が厚く、活力に富んだ日野商人である。初心止むことなく四方の君子、富人、豪家の資金面の協力を得て、天保十一年庚子歳(一八四〇)に竣成をみ、その経営に当った。
水流に八隻程の船を浮かべ、これを鉄鎖百余間、河川を横断して繋ぎ、橋板を並べ浮梁として人馬を往来させた。これを船橋と呼んだ。その至便なことは言うまでもない。
同年、大沼控撰による「陰徳橋」の碑が、釜屋久兵衛の発願によって建てられた。多くの浄財によって竣工をみたことに感謝してのことである。(別紙「陰徳橋」参照。碑現存なし)
『陰徳橋』発願人 釜屋久兵衛
人々は久兵衛の業績に感謝し賞賛惜くあたわず。藩主も作事吏に抜擢し、稟(りん)米二口を給し、船橋の姓を与えたという。
船橋は、明治八年(一八七五)まで舟橋氏が経営し、橋銭を徴したが、その後黒羽向町の共有となる。
明治二十九年(一八九六)十月、高道三十三回忌に当り、その業績を回想し、その徳を称えた。(別紙「浮梁記」参照)
明治三十二年(一八九九)十二月、船橋が廃止され、待望の木橋が完成した。長さ五百七十六尺ほどで、県費一万二千三百九十七円を要したという。(「那珂橋碑」碑塔類、記念碑の項参照)