十五 三田称平(地山)

1125 ~ 1126
 三田称平(みたしょうへい)(一八一二~一八九三)は、黒羽藩士秋庭清房の子で幼名を房之助、名は称平、地山(ちざん)と号した。幼くして藩学大沼瓠落軒について漢学を、同藩士小山田稲所について国学を修めた。天保二年(一八三一)江戸勤番のとき安積艮斎(あさかごんさい)の門人として朱子学を学び、同五年(一八三四)藩主増儀(ますよし)が大阪加番のとき大塩平八郎の門人となって陽明学を学ぶ。同十一年(一八四〇)には郡奉行等になり藩政に関与した。安政二年(一八五五)に下の庄(芳賀郡内の内)郡奉行として益子に着任し、「視民如傷」の善政を施き、益子焼の資金調達にも尽くして益子窯業隆盛の基礎を築き、自らも民芸風の「称平徳利」(燗瓶)を創案し愛用した。彼の「明治詩抄」に「称平陶鵑花」と題して、「間官俸薄乏嚢銭、久渇無由酒仙、称陶恥汝〓然腹、愍挿一枝杜鵑」がある。



 地山は知識人として時勢を静観し沈潜したが、戊辰戦争時には藩論が大いに揺れ動く中で、卓絶した時局観をもって政局を洞察し、大きく立ちあがった開明的な為政人であった。安政四年(一八五七)黒羽藩学「作新館」の学頭にも挙げられ、慶応四年(一八六八)に仙台に使し、白石において奥州列藩同盟に大義を説き黒羽藩の加入を拒み、帰国後進言して藩議を一決させた。幕末期における黒羽藩政改革のなかで、藩主増裕は多くの人材を登用したが、地山はその群像の先達としてその力量を発揮した。
 明治維新後は権大参事や集議院議員として新政に参画し、明治五年(一八七一)には、私塾「地山堂」を開いて門下生を教えた。門下生は作新館と私塾とを合わせて一千余人にのぼるといわれ、自由民権運動家として活躍した荒川高俊は地山塾で漢学を修めている。
 地山の著作のうち刊行されたものに「那須国造碑考」「日本外史摘解」「明治詩抄」などがあり、「地山堂雑記」をはじめ未刊のものも多く、地山の学問の深さと広さがうかがわれる。
 明治二十六年(一八九三)八十二歳で政治家、学者、教育者としての生涯を終えた。地山の墓は黒羽田町地蔵堂境内にあり、頌徳碑は黒羽神社境内にある。碑文は仙台処士岡千仞撰文、書家日下部東作の筆による。大正七年(一九一八)、従五位を贈られた。