地山は知識人として時勢を静観し沈潜したが、戊辰戦争時には藩論が大いに揺れ動く中で、卓絶した時局観をもって政局を洞察し、大きく立ちあがった開明的な為政人であった。安政四年(一八五七)黒羽藩学「作新館」の学頭にも挙げられ、慶応四年(一八六八)に仙台に使し、白石において奥州列藩同盟に大義を説き黒羽藩の加入を拒み、帰国後進言して藩議を一決させた。幕末期における黒羽藩政改革のなかで、藩主増裕は多くの人材を登用したが、地山はその群像の先達としてその力量を発揮した。
明治維新後は権大参事や集議院議員として新政に参画し、明治五年(一八七一)には、私塾「地山堂」を開いて門下生を教えた。門下生は作新館と私塾とを合わせて一千余人にのぼるといわれ、自由民権運動家として活躍した荒川高俊は地山塾で漢学を修めている。
地山の著作のうち刊行されたものに「那須国造碑考」「日本外史摘解」「明治詩抄」などがあり、「地山堂雑記」をはじめ未刊のものも多く、地山の学問の深さと広さがうかがわれる。
明治二十六年(一八九三)八十二歳で政治家、学者、教育者としての生涯を終えた。地山の墓は黒羽田町地蔵堂境内にあり、頌徳碑は黒羽神社境内にある。碑文は仙台処士岡千仞撰文、書家日下部東作の筆による。大正七年(一九一八)、従五位を贈られた。