明治二年(一八六九)版籍奉還により、黒羽藩権大参事となり、宇都宮県権典事、同県大属、茨城県典事、同県大属を歴任した。このころ鹿児島に西郷隆盛を訪ねた。戊辰の役の陣中で、西郷の幕僚たちを通じて西郷の人物を知り、心ひそかに敬慕していたので、この期に訪問を決意し、わが身の振り方等にも話が及んだものと思われる。西郷の推挙もあって明治七年(一八七四)、一躍陸軍少佐に任ぜられた。三十一歳のときである。同十年(一八七七)西南の役が起こり、大隊長として出陣、西郷を鹿児島城山に討つ運命になった。大いに武名を上げ、陸軍中佐に進み仙台鎮台歩兵第四連隊長となり、次いで大佐に昇進した。明治十八年(一八八五)陸軍少将に進み広島鎮台歩兵第九旅団長となった。(四十二歳)。次いで近衛歩兵第一旅団長となったが、かねてより眼疾(黒内障)を患い病勢が募ったため休職。このころ貴族院議員に推されたが、生涯武人一筋の決意は固く、これを断わった。日清戦争(一八九四~一八九五)中は、療養の身を推して従軍を志願し、熊本師団留守師団長事務取扱いとなった。明治二十八年(一八九五)職を退き、千葉県佐倉町(佐倉市)に住み、療養の田園生活を送ったが、同三十二年(一八九九)十月六日、病没。享年五十六歳。従三位勲二等 男爵。佐倉町(佐倉市)の大聖院(だいしょういん)に葬ったが、大正十四年大沼家累代の菩提所である光厳寺(こうごんじ)(黒羽町大字寺宿)に改葬した。
渉は、生来武人の気質があり、剛胆と機智に富むとともに、筆まめで『玄翼知新』(三巻)を始め種々の雑記を残している。また、刀剣を愛し狩猟を好み、達磨像等の仏画も描いている。武人一筋の道を歩み続けた明治期の本県を代表する軍人である。
(主として蓮実長著「故郷の先人」による。)