十七 松本調平

1127 ~ 1128
 調平、姓は藤原、幼名を正興という。父は平山清左衛門、文政元年(一八一八)九月七日羽田村に生まる。弘化元年(一八四四)松本久左衛門の嗣となり大塩村に住む。
 同年四月二十八日家督を襲い黒羽藩勘定方となる。大阪・江戸の勤番、内庫司、芦野助郷掛等を歴任し、文久二年(一八六二)新田開発掛となる。
 この頃黒羽藩は吉川儀兵衛(越後高田の人)を勧農顧問に招き、阿見太次右衛門を勧農方とし、開拓水利等農業一切の事務に従事させ、田畑の新発を(大目付安藤三郎左衛門。郷奉行渡辺文太夫、同小山権四郎、各〻兼務)専らとした。松本調平と小林華平とは、新発掛のもとに専務としてその掌に当った。その執務内容は、「文久二壬戌年従九月十九日『新発日記』松本調平」に記載してあり、その業績を偲ぶことができる。
 彼は同三年再び内庫司となり米穀出納を司ると共に勘定惣監を兼ねる。元治元年(一八六四)代官職に擢んでられ、封内四分の一を管す。なお国産を掌り越堀取締、山奉行、奉公人方を兼ねる。慶応三年(一八六七)徒目付に進み、駿府に使す。
 明治元年(一八六八)戊辰役に際し、仙台鎮撫九条公への藩の副使を勤め輜重の師となり、奥羽降伏後は棚倉城に戎す。
 明治二年勧農使となり、権少属に任ぜられ、賞典録を賜わる。十月致仕、長子正慶家禄二十石を襲う。同四年王政復古、廃藩置県後も箒川・絹(鬼怒)川の修治、高久村外三村の副戸長、大田原駅及び二村、馬頭村及び四村の管轄等に当り、同六年(一八七三)九月老をもって職を辞す。
 彼は勧農方に勤め、領内の開発の掌に当り且つ『勧農教諭書』慶応二年=一八六六を編刻し、農民の啓発に尽した功績は顕著である。

『観農教諭書』松本調平

 黒羽藩の近世中後期における勧農政策はみるべきものがあった。郷方奉行鈴木武助(為蝶軒(いちょうけん))は『飢饉用心』(農喩(のうゆ))を著し、農民の出精(しゅっせい)、風俗矯正、倹約貯穀、戸口増殖を核とする農村複興の仕法をすすめた。
 藩主大関増業(ますなり)も『稼穡考(かしょくこう)』(創垂可継(そうすいかけい)の農政録に収む)を編さんした。(礒重兵衛らによる『乍恐奉書上候、耕作蒔仕付方之事』と『農稼業事』を原本として編さんした。)
 増業は葉煙草など換金作物の奨励、漆の栽培、硫黄採掘などの国産政策を柱とし、これらの殖産政策の一環として、『稼穡考』を農業生産生向上の指針にしたのである。
 松本調平は私事をもって公事を辞さず、厳正民を率い、公正な知識人であった。下級の武士であったが、黒羽藩農政の伝統を承け、職責から得た貴重な体験を通して『勧農教諭書』の編述となった。
 『勧農教諭書』の上巻は「夫(それ)民は国の根(もと)たり、民滅(めつ)する時は国も乱る可(べ)し云々」と農家の日常生活訓を述べ、新発のことに触れ、奥州相馬領の「勧農」を紹介し、慈悲の心を育て農村の共同扶助の大切さを訴えている。
 下巻では稲作の技術解説と荏、棉・茄子・煙草・コンニヤク等の畑作について播種・肥培などの要点など、寒冷な山間地に恰好の農法指導を述べている。
 調平は、明治二十二年(一八八九)一月二日七十一歳で死去す。