十九 植竹三右衛門

1129 ~ 1130
 植竹三右衛門は黒羽向町の人である。安政元年(一八五四)二月先代三右衛門の三男として生まれた。幼名を寅次郎と言い明治七年家督を相続して父の三右衛門を襲名した。
 幼い時からよく父母に仕え、代々の家業である醤油醸造業に励んだ。後この業は株式組織に変更して廃業し、その後は県北地方の山林原野の利用開発に心を砕いた。父三右衛門は戊辰の役に黒羽藩の糧食供給の任に当り功績をたてた。勤倹産を治めて富を作った。三右衛門は父の遺志を継いで殖産に力め、殊に少壮の時から林業に志し、自ら鍬を執って樹木を植えた。明治二十八年寒井糠塚の原野を購入して植林し、又この地を開墾すること三百余町歩に及び開拓者の一聚落が生まれた。
 明治三十年九月栃木県農工銀行設立委員になり、初めて金融界に登場し、この創立の事務をなし、翌三十一年四月の創立と同時に監査役となった。のち取締役として業務に当り県下農工業の発展に腐心すること十余年、大正二年三月頭取となった。これより先明治三十年十一月地方金融機関の必要を痛感し、黒羽向町に黒羽銀行を設立し頭取に挙げられた。その後諸会社の創立に努力し、氏家銀行、那須商業銀行、下野新聞株式会社、日本製麻会社、西沢金山探鉱株式会社、下野銀行株式会社、益子銀行、四十一銀行株式会社、宇都宮瓦斯株式会社、下野酒造株式会社、東海銀行等の重役を兼ね、栃木県金融界に活躍し世の信望篤く、明治四十四年より大正十四年迄二期栃木県多額納税者貴族院議員に当選して国政に参与し勲四等瑞宝章を授けられた。



 このように県財界の重鎮となったが、財界で活躍するかたわら、明治三十七年日露戦役に我が国の馬匹の劣っていたのに鑑み、馬匹改良の急務を痛感して、自ら巨費を投じ牝馬を奥州より、種馬を欧州より求めて馬匹の改良を図った。後に下野産馬組合が設立される時にこれを助成し、大正元年には同組合長に選ばれ、益々この事業に努力した。
 このように産業各方面にわたって働いたが、最も力を入れたことは植林事業であった。先に寒井糠塚に植林したが、明治三十五年には伊王野荒金沢の土地三百六十余町歩を購入して杉を植えつけ、更に大正二年には下野造林株式会社を設立して、八溝山麓に一千余町歩の地を購入して造林した。現在の帝国造林株式会社である。かく広く財界に活躍すると共に造林事業に努力した。昭和八年七月六日病危篤の旨天朝に達し、多年の功績により従六位に叙せられ、同日永眠した。享年八十歳であった。